波打ち際。
 満潮時には、案の定海水が一階に浸水する家。そこには二日前から居候がいる。
「ペッシー! 晩ご飯釣れたー?」
 二階の窓から身を乗り出したナランチャの声に、水に浸かりながら釣り糸を垂れていた居候は両手を振って答える。
「コイがかかりましたー!」
「やったぁ! ブチャラティ、今夜はコイだよ!」
 室内で読書をしていた子供は、その言葉に曖昧に頷いた。
 相変わらず慣れない世界だ。
 家の前に広がるのは、間違いなく海だ。コイが住んでいるはずがない。いるはずがないのに、釣れる。
「あいつ……そのうち本当にペンギンを釣るかも」
 毎日釣り糸を垂らし、彼が狙うのはペンギンだ。
 釣れたら兄貴分に見せて、家で飼うのだと言い続けている。
 ただし。
 肝心の兄貴分は現在行方不明だが。
「あー!」
 窓から下を見ろしていたナランチャが、素っ頓狂な声を上げる。つられて顔を上げると、身体を半分以上外に出して何かバタバタしている。
「気をつけないと、落ち……」
「ブチャラティブチャラティ! 大変大変! ペッシが食われるー!」
 危険は目の前の子供ではなく、外の居候の方にあったのか。
「ナランチャ……コイなんてものに指先をちょっと舐められたくらいで『食われる』は大袈裟だ」
 必要以上に騒ぐのは、この子供の癖だ。
 刺激の少ない毎日で、よほど退屈なのだろうか。
 友達が必要ならば、少し遠出して誰か気の合う人間を捜してやった方がいいのかもしれない。
 保護者的なことを考えていると、ナランチャが涙目で振り返る。
「違うって! コイじゃないよ! デカい生き物!」
 海にいる大きな生物。
「なんだ、それは……?」
 サメは多分違う。サメならナランチャだって知っている。ではイルカか。ここではイルカも釣れると聞いた。だがイルカの姿を見て『食われる』はないだろう。第一、ペッシはイルカだって仕留めた実績がある。
 だいたい、釣り竿一本でクジラと対等に渡り合う子供相手に、いったいどんな生き物が襲いかかるというのだろう。
 ナランチャがあまりに必死なので、ブチャラティはやっと本を閉じ、窓から下を見下ろした。
 と。
 予想外。
 海の生物ではなかった。
 ペッシが現在、釣り竿一本を武器に格闘しているのは、なんと猿の子供。
 いや、猿ではない。
「オランウータン……?」
 さすがにこれは常識外だ。
 この世界ではオランウータンも海に生息するのか。
 ずぶ濡れで海面から顔を出し、口に引っ掛かった針を抜こうともがいている。
「……すごいな。オランウータンも釣るのか、あいつは」
 しかも、小猿のようではあるが、その大きさは人間と変わらない。
 獰猛なうなり声を上げて暴れ回っている。そのため、糸で繋がったペッシも海中に引き込まれそうになっている。
「何呑気なこと言ってんの! 助けないと!」
「しかし……手を出して、後から機嫌が悪くなったら……」
「死んでからじゃ遅いよ! 猿に食べられちゃうよ!」
 いや、少なくとも死にはしない。
 それに、あのオランウータンが人間を食べるかどうかも定かではない。
 だいたい、暴れる片手には網のような物を持っているし、中には魚介類が詰まっている。
「オランウータンが……素潜りで漁……?」
 潜っていたところを、何かの拍子に針が引っ掛かってしまった。おおよそそんなところではないかと思われる。
 だとしたら、ペッシが外してやればいいのだろうが、あれだけ大暴れされては、外すに外せないのだろう。
 仕方がない。助けに行くか。
 そう思った時には、もう傍らの子供は行動を起こしていた。
 ブチャラティが下に降りようかと踵を返すよりも早く、エアロスミスがナランチャから飛び立っている。
「いや……ナランチャ、それは却って逆効果だ……」
 いきなり乱射されたら、余計にオランウータンは逆上する。
 止めようとして、ブチャラティは目を瞠る。
 頭上に現れたエアロスミスを、オランウータンは目で追っている。そして。
 空いている方の腕で叩いた。
「見えている……つまり……」
 スタンド使い。ただのオランウータンではない。
「助けた方が良さそうだ」
 両手の塞がっているペッシでは、スタンドで攻撃された時に対処できない。
 それに。
 ペッシが海中に引き込まれたら、ナランチャが楽しみにしている夕食のコイが食べられなくなってしまう。
 ブチャラティは窓から離れ、一階へ降りる為に階段へ向かった。

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