外が騒がしかったので、そっと窓から見下ろしてみた。
はしゃいでいるのはナランチャで、自分の身体の三倍以上ある黒っぽいツヤツヤしたものを珍しげに撫で回している。
なんだ、あれは。
いくら波打ち際だからといっても、こんなものが打ち寄せられるような家はちょっと嫌だなと思う。
「ナランチャ、どうした?」
窓から声をかけてみる。
あどけない笑顔がブチャラティを振り仰ぎ、両手を振って答える。
「見て見て! すごいよ、この人!」
どの人なのかと見遣ると、アバッキオの横でいつまでも恐縮したように照れ笑いを浮かべている子供がいる。
絶対に一度はどこかで見た覚えのある顔。
本当にここは、よく見知った人間が相手であっても、すぐにはそれと判別できない世界だ。
一度や二度会っただけの相手など、そうそう簡単に見分けられない。
成長したらどんな感じになるんだろう?
窓に肘をついて、じっとその子供の顔を眺める。
「この人、釣り名人だよ!」
へえ。ってことは、このサメ、釣ったのか。こんな近くをサメが泳いでいるのか。少し危ないな、無闇に入るなとナランチャに注意しておこう。
そんなことを考えていると、一番最初の、この子供が誰なのかという疑問が少しずつ遠ざかる。
いけない、と気づく。
どうも、すぐに散漫になる。興味が次々と移っていくのは、身体だけでなく頭の中まで子供レベルに戻ってしまっているということなのだろうか。
もっとよく考えないと。
どうしてサメが釣れるのか、とか、こいつはサメなんか釣ってどうするのか、とか。
「ねー、この人、半分うちに分けてくれるんだって! これって包丁で切れるの!?」
「ちゃんとお礼は言ったか?」
「うん! 晩御飯楽しみだよな!」
そうか。このサメ、食べる為に釣ったのか。
もう生前の常識とか、そういうことは無視した方がいい。ブチャラティは強引にそう言い聞かせ、下に降りた。
近くで見ると本当に大きい。
半分も貰って、三人で食べきれるのか。
「一つ聞くが……丘の上の屋敷の?」
「はい、そうっす」
「何人で生活をしてるんだ?」
「九人っす」
「だったら、半分も貰うわけにはいかない。うちは見ての通りだ、三人しかいない。少しだけでいい」
その提案は、しかしサメの権利を有するこの子供によって却下される。
「でもこの前のオットセイの時も、その前のアザラシの時も、イルカの時も、全部オレ達だけで食べたんで……今までの分もこれで帳消しってわけじゃないけど、とにかく貰ってください」
「半分も貰ったら、九人で食べる分が無くなるだろう?」
「いいえ! このデカさっすよ! 明日の朝飯の分だって取れるっす!」
言われてみればそうかもしれない。
「そうか……じゃあ遠慮なく」
ブチャラティはそっとサメの巨体に手を伸ばし、大凡真ん中と思える辺りにジッパーをつけて二つに分けた。
「うわぁ便利っすねー……こんなのどうやって分けようかって悩んでたんすけど……今度からお願いしますよ」
「いや、こんなことで良かったらいつでも」
こいつ、スタンドが見えているんだな。
そう思った瞬間、この子供の正体がわかった。
じっと見つめると、ペッシは何かを悟ったように照れ笑いをする。
「過ぎたことっすよ、もう誰も気にしてませんから」
「……そうか」
イタリア人の男ばかり九人。そう聞いた時点で気づくべきだったかもしれない。
ペッシは半分にしたサメを引き摺りながら、「じゃあオレはこれで」と丘を上り始めた。
残ったサメを、ナランチャが必死になって家の中に運ぼうとするのを見て、ブチャラティはアバッキオを促す。
これで何を作るのか、正直ブチャラティにもまだわかっていなかったので、運びながらナランチャに聞いてみる。
「夕食、何を作る?」
「サメステーキ!」
「……わかった」
適当な大きさに切って焼け、ということだ。
それで本当に美味いのかどうかわからないが、これだけの量だ、一度や二度失敗しても平気だろう。
ふと、このサメも死んだ後この世界で泳ぎ回っていたものではなかったかと思う。
「……だったら死なないか」
もう死んでいるものは、これ以上死なない。
ということは、このサメは何なのか。この世界で生きているものなのか。
なんだか説明のつかない現象ばかりだ。もう考えるのはやめよう。
サメを運びながら、今度、丘の上の家を、何か礼の品を持って訪ねてみようと思った。
多分、暗い目をした子供が出迎えてくれる。そんな気がする。彼には、一度会ってみたかった。
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