Un corridoio

「シーザー、ちょっと……」
 夕食時。食堂へ向かう途中で呼び止められ振り返る。
「?」
 柱の陰から手だけが出て、おいでおいでと誘う。
 愛らしい手だな、と思う。
 こんな可愛い手を持つ女性がここにいただろうか。誰の手だったか咄嗟に浮かばず、首を傾げながら近づいた。
「何かな、シニョリーナ?」
 未だ柱の陰に佇む女性の、その手にそっと触れ、優しく囁きかける。
「ああ、真珠のような爪だ。けれど水底で眠り続ける宝珠のように冷え切ってしまっては、君の美を損なってしまうよ。こんな所で何をしているんだい?」
 吹き抜けの回廊は、風通しが良すぎる。肌にも悪いし、長時間立っているような場所ではない。
 そっと両手でその掌を包み込み、口元へと運ぶ。口づける振りだけして、相手の様子を窺う。
 特に嫌がってはいないようだ。
 一瞬だけびくりとしたのは緊張のせいか。
 シーザーが触れることに嫌悪感は、おそらく無い。
 特定の相手がいない独身女性。男性慣れしていないが、シーザーに対しての警戒心は薄い、と見た。
 以上、確認終了。
「夕闇の出会いを祝して」
 遠慮なく、口づける。触れると、その手首からは微かな柔らかな香り。
 リサリサの好みの香りだ。ここの女性は誰もが皆、リサリサに合わせて同じ香りを纏う。
「残照は美しいけれど、じきに夜の帳が降りる。場所を変えよう」
 自分の寝室に連れ込むのもどうかと一瞬迷った。
 ここがローマの街で、帰る先が自分一人の家ならば問題はない。が、現在自分に充てられている部屋は、ここでの修行の為の寝泊まりの部屋。
 女を連れ込んだとばれたら、リサリサに怒られるかもしれない。
 とはいえ、常日頃の習慣で、女性の手を取ってしまい、口も常套句をスラスラと滑らせている。
 今更ここで話せ、と言うのも。
 実際、暗くなるとここでは寒すぎる。室内の方が良いに決まっている。
 それに。
 多分、数分も待たずに、遅れてジョセフがここを通るはず。
 あの朴念仁に見られたら、何を言われることか。
 修行中に何を考えているんだ、とかなんとかもっともらしいことを言いながら、実は少しだけ「羨ましいぞコノヤロー」という目でこちらを見たりする。
 そういった理由からも、早くここから離れるべきだ。
 けして強引ではない仕草でエスコートし、その手の持ち主を柱から誘い出す。
 と。
「スージーQ」
 誰かと思えば。いつも見ているつもりでも、手までは記憶していなかった自分を叱咤する。
 なんてことだ。身近な女性の手すらも覚えていないなんて。
 シーザーにとっては恥ずべきことかもしれないが、よくよく考えれば今は修行中なので、余計なところに目が行っていなかったことは逆に褒められるべきだろう。
「ここでいいんだけど……」
 やっと柱から顔を出したまではいいが、スージーQはそれ以上一歩も動こうとはしない。
「何故?」
 問う間にも、ジョセフの足音が遠くから聞こえて来る。


 別にスージーQと立ち話をしていたくらいでは特別問題などないはずなのだが、なんとなく習性で、シーザーはスージーQを再び柱の陰へ追いやる。
「シーザー?」
「しっ……静かに」
 人差し指をスージーQの口に当て、片目を瞑って促す。
「JOJOが通り過ぎるまで。いいかい?」
 言いつつ、シーザーも柱の陰へと隠れる。
 柱の太さと、宵闇の薄暗さに救われた。
 足音は何も気づかずに通り過ぎて行く。
 それが食堂へと完全に消えたのを確認し、やっとシーザーは息をつく。
「さて。……それで?」
 改めて向き直る。
 何故ジョセフが来たから隠れなければならないのか。それがいまいちわからなかったスージーQはやや不審げではあったが、すぐに何か思い出したかのように顔を上げる。
「そうそう。……甘いもの、好き?」
「甘い、もの?」
 君の唇の甘さに敵うほど甘いのなら、喜んで頂くよ。
 いつもの癖でそう言いかける。が、なんとか喉元で押し留めた。
 さすがにここの内部の女性相手には、まずい。
 特に彼女はまずい。
 下手をすればリサリサに筒抜けだ。
「好き……かな?」
 歯切れが悪くなるのは、言葉を選んでしまうせいだ。
 誤解を与えるような言い方をしないように。そう心がけると、今度はあれもこれも禁句のように思えて、何も出てこない。
「良かった!」
「?」
 途端にスージーQは明るく微笑み、いそいそとシーザーに掴まれていない方の手を差し出した。
「内緒よ。一人分しかないんだから」
 小さな包みを、ぽんと掌に乗せられる。
「これは?」
「メッシーナ師の、今日の食後のデザート。作りすぎたからお裾分け。でも一人分だからこっそりね」
「………」
 一瞬、目眩がした。
 あの人があんな顔で実は甘い物に目がないことも十分驚けたが。
 他の誰も食べていないのに、自分だけ特別注文して甘い物を食べていることも初めて知ったが。
「……どうしてオレなんだ?」
 そんなに物欲しそうに見えたのだろうか。
 いや、確かに時々物欲しげにしているが、それは糖分ではなく女性に飢えているからで。
 複雑な表情で考え込んでしまったシーザーに、スージーQはあっさりとその答えを述べる。
「シーザーだからっていうんじゃないの。ただ、最初にここを通りかかったから、シーザーを呼んだだけ」
「そ、そうか……」
「嫌いだった?」
 眉を寄せ、上目遣いにそんなことを言われると、シーザーも条件反射のように口を開いてしまう。
「いや、女性に手渡された物が嬉しくないはずがない。ありがとう、スージーQ。でもこれは、後でJOJOと分けて食べるよ」
 あの男は意外に鋭い部分もあるので、自分一人こっそり何か食べたらきっと気づかれるに違いない。
 食べ物の恨みは何より恐ろしいし、しかも貰った余り物ごときで揉めたくない。
「仲が良いのね。でも、他の人には内緒よ」
「ああ、わかってる」
 感謝の気持ちを込めて、頬に軽く口づけ、シーザーはポケットに包みを押し込む。
「さあ、夕食に遅れる。行こう」
 先程までは食事のことなど無視して部屋に連れ込もうとしていたのだが、相手が対象外の人物とあってはそれも立ち消え。
 まだ十分、夕食には間に合う。
 後は、食事の間、ポケットに収めた物の存在を他の誰にも気づかせずにいれば万事成功。

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