Souvenir from Father
約束を破られるのは慣れている。
大の字になって高鼾をかいている父親を尻目に、ディオは椅子に座り直した。
数時間前、出掛ける父は上機嫌で、「今日はおまえにも何か買って来てやる」と言っていた。
元よりこれっぽっちも期待などしていなかったので、手ぶらで帰ってきたその姿を見ても、思うことは何もなかったが。
しばらくはテーブルで書き物をしていたが、背後の鼾と寝言が耳障りだ。ディオはペンを置き、乱暴に椅子から立ち上がると、わざと父親の方を見ずに脇をすり抜け外へ出た。
薄暗い町をあてもなく歩く。
子供が一人歩きをすれば、通常は三十分で行方不明になる地域。
しかしここで生活するディオにとっては、慣れた遊び場だ。
何が危険で、何を避ければいいか。近づいても差し支えのない部分は何処か、手を引くぎりぎりのラインは何処に存在するか。ルールさえ知っていればいい。それは大人でも子供でも同じこと。
「ディオ」
狭い路地で声を掛けて来るのは、同年代の少年。どの男が父親なのか絞り込めない生まれの子供は、たまたま近くに住んでいるというだけで仲間意識を抱いて近づいて来る。
だが、言葉を交わすのは五回に一度だけと決めているので、ディオは今日も一瞥しただけで通り過ぎる。
いつか自分はここを出て行く。
遠くない未来に、ここから出る。
その日の為に、ここで気安く名を呼び合うような知り合いは作らない。
「チッ……また無視かよ」
自分を罵る声が聞こえる。けれど振り返らない。絶対に。
ポケットを漁る。
コインは一枚。父親から隠し通した最後の一枚。
「……今夜の食事はどうするつもりだ……?」
酔って帰って来たあの様子では、おそらく一銭も残してはいないだろう。
いや、きっと自分だけは食べて来たに違いない。子供が家で待っていることなど、酒を飲んでいる内に忘れたのだ。自分一人、好きなだけ飲んで、腹一杯食べて、ディオが空腹かどうかなど、途中でどうでも良くなった。きっとそう。
今帰れば、隣の子供好きの中年女が、扉の陰からそっと手招きするだろう。
セリフも想像がつく。
『また酔っぱらって帰ってきたんだろ?』
『可哀想に。お腹空いてるね、お入り』
『こんな物しかないけど、無いよりましだ。食べな』
惨めな生活をする女から受ける施しが、一番自分を惨めにする。
あの女よりも自分の方が酷い生活をしているのだと見せつけられるようで。
だからまだ、帰るわけにはいかない。
特に意識していたわけではないのだが、気づけばパン屋の前に出ていた。
見るとはなしに店内を覗くと、売れ残りを前に思案顔の店主。
思った。
今なら、盗れる。
店主の意識はこちらにない。
商品しか見ていない。
今すばやく入って、そして幾らかの金を握って飛び出せば、きっと成功する。
「……それで顔を見られて、明日には捕まる、か」
そんな真似をしては、今日までこの薄汚い町で耐えて来た意味がない。
軽率なことは、やはりできない。
詰めていた息を一気に吐き出し、踵を返したその時。
「待て! この悪ガキ!」
「畜生、離せ! 離せったら!」
先程ディオに話しかけていたあの少年が、パン屋の店主に片耳を掴まれている光景が目に入る。
ずっとディオをつけて来ていたのか。それとも、たまたま同じ方向に進んだ結果、彼もディオと同じようなことをついつい考えてしまったのか。
ほら、やっぱりそうだ。
誘惑に負けて盗みに入ったら、こうなるんだ。
これが、自分と連中の差だ。ディオはそう思う。
同じ状況になって、同じことを想像して、けれどディオはそれを実行しなかった。彼はした。それが自分達の違い。
「おまえ達とは……違うんだ」
いつか必ず、正攻法で、この町を出てみせる。
あの厄介な父親だって、いずれ始末をつけてやる。
ずっと握りしめていたコインを持って、ディオはパン屋に入る。
店主はまだ、あの少年を殴りつけている。
たった一枚の薄汚れたコインで買えるものなど、たかがしれている。
一番小さな、固いパンを一つ掴み上げ、ディオは店主に向かって片手を振った。
「これ、貰うよ」
代金をその場に置き、外に出た。
店主はコインとパンをちらりと見比べた後、軽く頷き、すぐにまた蹲る少年を蹴りつける。
見るほどのものでもないのだが、ディオは地面に俯せになって耐える少年に、わざと自分がいることを知らしめるように、ゆっくりとその顔の前を歩く。
相手がこちらを見上げたのを確認し、ディオは微かに笑った。
見下されたと知った相手は、ディオに手を伸ばそうとしたが、パン屋の店主の足に阻まれ、それも叶わない。
そう、これが、自分達の違い。
行く宛も、することもない。
だから帰って来た。
隣の部屋の女が出て来る前に、素早く扉を閉ざした。
その大きな物音のせいか、居眠りをしていたはずの父が薄く目を開ける。
「ディオ……?」
「夕食は?」
わかってはいるが、それでも尋ねる。
まだ完全に目の覚めない父は、口の中で『夕食』と反芻し、すぐににやりと笑った。
いったいどこでどんな物を食べて来たのやら。
相手をするのも面倒なので、そのまま横をすり抜けようとした時だった。
「おまえの為に貰ってやったんだ」
腕を掴まれ、小さな袋を渡された。
「何?」
「子供用の菓子だ。貴族の子供達が飯の後に食べてるやつだ、ありがたく頂戴しろ」
どこから持って来たのか。どういうつもりで、そんなものを持ち帰ったのか。
問いただすつもりで見直した父の顔。
しかし。
再び父は、眠りに落ちていた。
食事も与えずにいて、何が菓子なのか。
ディオは掌に載せられていたそれを握りつぶし、けれど何故か、その後でそっと袋を開いて中のそれを口へと運ぶ。
「甘い……」
初めて食べたそれは、ただ甘く感じるだけ。
「こういうものを……毎日当たり前のように食べる生き方を、してみせる」
父にそんな意図は無かっただろう。そこまでの思慮などこの男に有りはしない。
だからディオは、自分で勝手な解釈をすることにした。
そう思い込むことで、これまで躊躇って来たことを、実行できそうだった。
枕の下にそっと隠してあったそれ。
ただ町を徘徊していたわけではない。町を十分に知れば、手に入れられるものもある。
これを使えば、使い続ければ、いつか父親は死ぬ。そういう類の薬。
「このディオの為に……死んでくれるかい?」
眠り続ける太平楽な寝顔に向かって、ディオは笑いかけた。
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