huit.Hol Horse

「ホル・ホース様、これをお持ちになって」
 ついさっき聞いたばかりのはずの女の名前だったが、早々に忘れてしまったので、ホル・ホースはただ頷くだけに留め、女の差し出した花を受け取る。
「幸運のお守りよ」
 花言葉などよく知らないので、本当にそうなのかどうかわからなかったが、ホル・ホースは最高の笑みで応える。
 ただ庭先に咲いていた花を折って来ただけなのだろうから、大して意味などないのだろう。
 それでも女が差し出した物ならば、必ず受け取ってやるのが礼儀だ。
「お気をつけて」
 名残惜しげな女から素早く離れ、何度も手を振り、ホル・ホースはその姿が見えなくなるまで慎重に行動する。
 見知らぬ異国の地に来てから、何人の女とこうやって接触しただろう。


 逃げるようにエジプトを脱出した後、ひとまずは知己の女を頼って世界中を巡った。
 見つからないように。追われていることすら忘れられるように。
 用心のため、一所に長居はしなかった。
 長くて十日、早ければ三日でねぐらを変えた。
 本当は、誰も自分を追ってなどいないと知っていたはずなのに。
 逃げていたのは空条承太郎からだったのか、既に存在しないDIOからだったのか、それとも狂信的なDIOの信奉者からだったのか。それすらもわからなくなる日々。
「……二年か……」
 巡り行く季節と共に、時間の経過を知る。
 もしかしたら、もうそろそろ落ち着いてもいい頃合いなのかもしれない。
 しかしすっかり放浪癖が身に付いてしまった今、どこに定住すればいいのやら。
 気づけば、自分には親しい仲間すらいない。
 DIOがいなくなった瞬間に、『仲間』も失ってしまった。
 いるのはただ、世界中にいるホル・ホースに想いを寄せる女達だけ。
 そしてその女の数は、この二年で実に倍に膨れ上がっていたのだが。
 先程別れた女も、つい数日前に知り合ったばかり。二日ばかり世話になっただけで、もう金輪際会うこともない女。だから名前さえも覚えない。
 かつてはどんな女も、絶対に忘れなかった。
 それがいつからか、駆け抜けて行く女の顔や名前を、次々と忘れて行くようになった。
 それは多分、ホル・ホース自身が惰性で女を扱うようになったから。


 たった今貰った花も、旅の途中できっと失ってしまう。
 今日か明日か、おそらく数日中には。
 それはどこかで落としてしまうか、萎れたから捨てるか、そのどちらかで。
 折角の女の好意も、その程度。
 そして花を失った瞬間に、あの女の顔も忘れてしまう。そんな自覚がある。
「ん……?」
 花を見ながらふらふらと歩いていたせいか、自分の裾を引っ張る存在にしばらく気付けなかった。
「?」
 見下ろした先には、幼い少女がいた。
 薄汚れた顔。
 泥だらけの服と靴。
 何の習性か、性別が女であれば誰であろうとつい愛想良くなる。
「どうした?」
「………」
「家は?」
「………」
 言葉が通じないはずはない。ちゃんとこの国の言葉で話しているのだから。それにこの子は、見るからにこの国の民族特有の顔立ち。
「名前は?」
「………」
 反応が殆ど無い。
 どうしたものかと、その場に膝を折って目線を合わせる。
 少女はホル・ホースではなく、その手の花を見つめていた。
「こいつか?」
「……うん」
 やっと返事が返った。
「欲しいなら、やるぜ」
 ほら、と差し出すと、少女はおずおずと手を伸ばす。
 幾つだろうと、女は花が好きなんだな、と感想を抱いた後、ホル・ホースは少女の頭をそっと撫でてみる。
「花、好きか?」
「……うん」
「家はどっちだ? 送ってやる」
「………」
「どうした? 家がないのか?」
「……うん」
 心細げな少女の表情に、久しぶりに庇護欲が湧く。
 今日まで住んでいた家がある以上、そこに帰るのが普通だが、もしかしたら帰れない事情があるのかもしれない。ホル・ホースは無理に聞き出すよりも、しばらくこの子に構ってやる方を優先することにする。
「どうだ、兄ちゃんと遊ぶか?」
「うん」
「花積みに行くか?」
「うん!」
 子供好きなわけではないが、なぜかふとした弾みに、こうやって子供に構いたくなってしまう。ただの気紛れなのだけれど、粘着質な女の相手をした直後は、無性に。


 貰った花は、捨てるより萎れさせるより、幼い少女の癒しになった方が有意義だ。
 ホル・ホースはそうすんなり納得し、少女の手を取って歩く。
 そういえば、と思い出す。
 DIOの館で、一度だけDIOにからかわれたことがある。
 日本の古い物語には、ホル・ホースのような男を主人公にした話があって、その男は女遊びの果てに、ついには自分好みの女を少女から育てようと企んだ、と。
 その時DIOは、「おまえもいずれそんな風に目覚めるかもしれないな」と嘲笑していた。
 冗談じゃない、とホル・ホースはむっとした。
 自分はロリコンじゃないし、そんな風に女に飽きたりもしないのだから、と。
 あれから二年。
 DIOの言葉通りになるのは癪だったが、確かに自分は女に疲れて来ていた。
 さすがに長生きしていただけあって、あの吸血鬼の目は侮れなかったのかもしれない。
 いずれ、と言われた日が、本当にこの身に訪れていた。
 そして。
 握った手の先。
 心底嬉しそうに花を掲げる少女の顔を見下ろし、ホル・ホースは一度だけかぶりを振る。
 DIOの予言通りになるのは嫌なのだが。だが。
「なあ、行く所がないなら、オレと来るか?」

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