trois.Noriaki Kakyoin

 掃除当番だということを忘れていたわけではないが、いざ放課後になってみると急に焦り始めた。
 誰よりも先に、美術室に行きたかったから。
 だからといって当番をサボって駆けつける、という真似はしたくなかったので、花京院は丁寧に箒で床のゴミを集めていた。
「花京院くん、これ、焼却炉まで運んでくれる? 今日に限ってすごく重たいの」
 女の子の腕に余る重量らしいゴミ箱を指差され、花京院は笑顔で頷く。
 内心、そんな暇はないと思いながらも。
 どうして忘れていたのだろう。火曜日は、美術部が活動している日。美術部がいない時だけそこで絵を描いていた花京院は、今朝もいつものように、授業が始まるまでの時間をそこで過ごしていた。放課後また来るのだから、とそのまま全て広げて置いて来てしまった。美術部が来る日だということをすっかり忘れて。
 出来ることなら、誰にも見られたくはない。
 自分が描いていたのが何なのか、人に問われると面倒だ。
 そのためには一番にそこに辿り着いて、さっさと自分の私物を片付けなければならない。
 しかし、今日は教室の掃除をしなくてはならない日。
 やけに重いゴミ箱を抱え、一階へと向かいながら花京院は腕時計をちらりと見た。
 既に十五分が経過している。
 もうとっくに、誰か美術部員が花京院の絵を見つけている頃だろう。
 どうする?
 今から行って、わざわざ「自分がこれを描きました」、と知らしめるか。
 それともそのまま今日は放置して、明日の朝、また誰もいない頃を見計らってこっそり片付けに行くか。
 面倒を避けたいのなら、後者を選ぶべきだ。
「どうするかな……?」
 焼却炉に辿り着くまでの間、花京院はどちらを選択するか考え続ける。


 既に三十分が経過し、この部屋の中で、美術部員達が和気藹々と活動している頃合い。
 花京院は溜め息混じりに、そっと扉に近付き、中の様子を窺う。
 もし人数がそれほどいないのならば、やはり今日のうちに片付けておきたい。
 一日ここに放置して、いつまでも絵を他人に見られ続けるかと思うと、却って落ち着けない。ならば、美術部の前に姿を見せる方がまだましだ。何か聞かれても、適当に誤魔化せばいいのだから。
 近付いた扉の奥。
 物音は殆どしない。
 人の気配も、それほど多くはなさそうだ。
 花京院は覚悟を決め、堂々と扉を開けた。
「……?」
 意外なことに、中にいたのはたった一人。
 それも自分と同じクラスの男子生徒。
 名前は……思い出せない。
「やあ」
「よう」
 彼は美術部だったのか。知らなかった。
「今日は、美術部がある日だったと思ったんだが……?」
「あーそうなんだけど、ほら、駅前のギャラリー。今有名な画家の絵が来てて、皆で見に行ったんだ」
 そこでその有名な画家、というのを名前で言わないのは、おそらく花京院への配慮だろう。絵に詳しくない人間に固有名詞を使っても通じない。
「君は?」
「オレはいいよ。あんまり好きな絵じゃないから」
 話す間も、彼の手は休められることなく動き続けていた。
 ただし、それが何なのか、花京院にはさっぱりわからなかったので、つい首を傾げてしまう。
「これ? 七宝。後から焼くんだ。出来上がったら緑色になる」
 一見、ただの金属板のような物を突き付けられ、花京院は曖昧に頷く。
 そんな簡単な説明で理解できるはずもないのだから。
「そうだな……ちょうど、ああいう感じの色かな?」
 ああいう感じ、と指差されたのは、窓際に置かれた自分の油絵。
 緑色の、生物か植物かよくわからない気味の悪い物体が蠢いている絵。
「誰のだろ? 部の奴じゃねーんだけど……」
「ぼくの絵だよ」
「へ……?」
 質問が来る前に、花京院はクラスメイトの前を横切り、自分の絵と道具を片付け始める。
「それって……心象画か何か?」
「ああ、まあ、そんなところかな……」
 本当は、実際に自分の後ろにいる奴をそのまま描いたもの。
 もっとも、実在している、と正直に答えても信じたりはしないだろうけれど。冗談の好きな奴、と思われるだけで終わる。
「へえ……いいな」
 グロテスクなだけなのに。
 何の気遣いか、そんなことを言い出す。
 そもそもこのクラスメイト、名前すらもろくに覚えていない程度の関係だ。今後彼と親しく付き合うつもりはないのだから、無理に褒めなくてもいい。
「花京院って、普段あんまり喋らないから何考えてんのかよくわからなかったけど……結構激しい奴だったんだな、絵に出てる」
「それは……どうも」
 その率直な感想は、果たして褒め言葉なのかどうか。
「オレ、絵筆握るとダメなタイプでさ……だから羨ましいな。なんで美術部に入らないんだ?」
「気が向いた時しか描かない奴が混ざっていたら、迷惑になるだろう?」
「あー平気平気。皆、そんな感じだから」
 勧誘されているらしい。
 思っていたよりも強引で、花京院は知らず苦笑していた。
「ほら、これがオレの。やっぱり花京院の方がいいよなー」
 どこからともなく引っ張り出されて来たそれを、花京院はこれも付き合いだと仕方なく見る。
「これこそ……心象画?」
「そんなとこかな」
 砂漠。
 何もない、砂漠。
 そこに一輪だけ咲く、種類の不明な白っぽい花。
「これは、何の花?」
「アマリリスのつもり」
 熱砂の大地を描いているというのに、何故かひどく悲しくなった。そこに、熱を感じない。暑い国だとは、とてもじゃないが思えない。
「ぼくは……こういう方が好きだな」
 思わず漏れた言葉は本音。
 名前も知らない相手を、本気で褒めた。
 いいと思った。
 心の中に、こんな優しい風景がある人物が、羨ましいとさえ思った。
 目が、離せなかった。


「もう帰るのか?」
「ああ、来週旅行に行くから、その準備があるんだ」
 ここから逃げるための言い訳ではなく、本当に今日はその予定だった。少しだけ描いたら、すぐに帰るつもりでいたのだから。だがここで彼とのんびり話している間に、時間はとうに過ぎてしまっていた。
「へえ。どこ?」
「エジプト」
「本当に!? 海外旅行!?」
「うん」
 高校生にもなって、家族旅行を楽しみにしている、とはさすがに言い辛くて、花京院はあまり詳しく語らない。
「帰って来たら、美術部に入部してもいいかな?」
 砂漠のアマリリスを描く彼の横で、自分も優しい絵を描いてみたくなった。
 花京院が遠慮がちに呟いた後、間髪置かずに彼は立ち上がって両手を握る。
「是非、来てくれよ! 待ってる!」
 それは本気で花京院を歓迎してくれているようで、なんだかこちらも嬉しくなった。
 この緑のスタンドや、様々な悩み全て忘れて、ここで絵を描けたらいい。そんなこと、つい数十分前の自分からは想像もできないことで。
 花京院は自分でもその変化に驚いていた。
「お土産は、アマリリスがいいかな?」
「砂漠の真ん中に生えてる奴か?」
「見つけられたら抜いて来るよ」
 そんな冗談の応酬。
 美術室を出てから、結局彼の名前が何だったか聞き忘れていたことに気づいた。
 だがそんなことは、エジプトから帰って、美術部に入ってからでいいだろう。
 両手に荷物を抱えた状態で、花京院は玄関へと向かった。

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