隣にいるだけで

 鞄から溢れ出した写真を、彼女が拾い上げる。
 白く細い指先が触れても、指紋は残らない。
「はい、どうぞ」
 手渡されたそれに、彼女が触れた痕跡は何一つ残らない。
「……ありがとう」
 触れていたのに、温もりも移らない。
 冷たい感触のそれ。
「露伴ちゃん?」
 ああ、また呼ばれた。
 彼女だけが、自分をそう呼ぶ。
 彼女だけが呼べる。
 顔を上げれば、屈み込んだままの彼女の視線とまともにぶつかった。
 今更逸らすこともできない。かと言って、見つめ続けるのも不自然で。
 気まずい。
「露伴先生? どうしたんですか?」
 正直、傍らに康一がいてくれたことに感謝している。
 彼がここに居なければ、自分はとうの昔に逃げ出していたところだ。
「……ここに写ってる小学生を、調べてみるよ」
「そうね」
 それは遠回りかもしれない。
 もしかしたら、近道になってしまうかもしれない。
 露伴の望みは、どちらだったろう。
 出来うるならば。
 これが空振りに終わることを祈りたい。
 そうすれば彼女はまだここに存在するから。
「露伴ちゃん……?」
 呼ばれる。
 名を呼ばれる。
「いや……」
 何を考えているんだ、僕は。
 露伴は顔を顰める。
 いなくなってくれれば、どれだけ自分は楽になるだろう。
 彼女はいない方がいいんだ。
 いなくなれば、もう何も悩まずにいられる。
 露伴の煩悶の元凶である彼女が消えてしまえば、このくだらない想いもすぐに薄れる。
 元の岸辺露伴に戻れる。
 本来の露伴自身に立ち返ることが、おそらく容易に出来るだろう。
「……早く終わればいいって思っただけさ」


 口に出してしまえば、言葉はあまりにも虚ろで。
 それが本心なのかどうかさえ曖昧で。
 声にすることで、言葉が真実になってくれるのなら、どれだけ有り難いだろう。


 まだ散らばったままの数枚の写真。
 アーノルドが何枚かを銜え、露伴の手元に近づける。
 この犬の瞳の奥には、露伴の感情を全て見透かす何かが存在している。
 知っていても、アーノルドは喋らない。人間と同じ言葉を使わない彼には、誰かに何かを語りかける術がない。
「露伴ちゃん? アーノルドがどうかした?」
 写真を差し出されても、受け取ることなくただじっと見つめ続ける露伴に、鈴美が問いかける。
「何か気になることでもあるの?」
「……いや。こいつは何を考えているんだろうなと思って」
 鈴美と視線を合わせないようにしながら、露伴はぽつりと答えた。
「急にどうしたの? この子は、あたしと同じことしか考えてないわ」
 自分と接する時の彼女の声は、清らかで優しい。
 けれど。
 あの男の話をする彼女は、厳しい。
 おそらくはその表情すらも、先程とは違っているのだろう。
 そんな彼女を見るのも、嫌いではない。嫌いではないが。
「……そうだろうな」
 やっと写真を受け取り、露伴は小さく同意する。
 心は違う所にあっても、声だけは会話を続行するために紡がれる。
 そう。
 彼女の望みは、やはり早くここから去ることなのだと。
 そんなことは最初から知っているのだが、ここに来て、最近急に、それが胸を締め付ける。
 それどころか。
 近頃では、ただ隣にいるだけで感じる痛みがある。
 その正体を、露伴は知っている。


 過去の経験から知っているのではない。
 他人の心の中に見た感情。本にしたと同時に、他人の感情と記憶を疑似体験する。
 その中で見た、とある種の感情に酷似している。
 ただ。


 この岸辺露伴が、そんな感情を実際に抱くなどということを。
 露伴自身の理性が認めたがらない。
 けれど、こうやって無駄に日を過ごしていれば、いずれ彼女はいなくなる。
 いざ認めた時になって彼女がいないのでは、それは余計に露伴を苦しめるのではないか。
 未だに、露伴の中でそれは解決を見ない。


「先生、その背中……病院に行った方がいいですよ」
「そんなに酷いかね?」
「酷いなんてもんじゃないですよ。僕も付き添いますから、ね、一緒に行きましょう?」
 そこで仗助に看てもらえ、と言わない辺り、康一も色々と学習したということか。
 苦笑した露伴に、康一は不思議そうに首を傾げる。
「露伴ちゃん」
 咎めるような声が、傍らで聞こえる。
 ちらりとそちらに視線を移せば、鈴美も笑っていた。
 彼女だけが。
 彼女だけが、露伴の全てを理解している。
 露伴が何を考え、何を思うのか。
 彼女には、何も言わなくとも全てが伝わっている。


 今の自分達は幾つも問題を抱えているのだけれど、この笑顔だけは。
 この笑顔だけは、失いたくないと思う。


 少なくとも。
 少なくとも、言葉のいらない部分で彼女と通じ合っている事実だけは、露伴に安らぎを与える。
 ともすれば。
 その安らぎの意味を理解しなくとも、安らいでいる事実だけあれば十分なのではないかとも思わせる。
 鞄を拾い上げ、露伴は康一を促す。
 彼女はいつもと同じように、露伴を見送る。

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