この思いに名前を付けるなら

 寂しいんだ。
 言わないつもりで押し殺したはずの言葉を口にした瞬間に、感情は渦を巻いて寂寥感へと流れ着く。
 取り繕えない。
 どんな顔も作れない。
 きっと今自分は、四歳の子供のような顔をしている。


 口に出さなくとも、彼女はわかっている。
 だがその目は、敢えてそれを言えと語りかける。
 口に出さなければ実感できないものも、ある。
 彼女がそれを求めているのかどうか、露伴は確信できずにいた。だが、言わなければ後悔するかもしれない。
 しかし。
 仮に。
 行くな、と。そう言ったとして。
 彼女がそこに居てくれる保証はない。
 いや。
 何を言っても、行ってしまう。
 だとしたら、言っても言わなくても一緒じゃないか。
 葛藤は長く続いた。
 けれど。
 結局自分は言ってしまう。
 寂しいと。
 寂しい。そう言ってしまう。
 口に出した途端に、どれだけ彼女が大切な存在なのか、思いが溢れ出る。


 露伴ちゃん。そう呼んでくれる人がいなくなる。


 彼女は知らない。
 このスケッチブックの中を。
 滅多に人に見せることのないそれの中が、今は彼女で一杯だということを。
 一人きりの部屋で、ふとした瞬間に思い浮かべる顔が彼女のそれだということを。
 なんとなく動かしていた手が、彼女の陰影を描き出してしまうということを。
 彼女は、きっと知らない。


 知らず、手はそのスケッチブックへと伸びていた。
 慣れ親しんだその感触。
 そこには、彼女を写し取った露伴の絵が何枚も何枚も存在する。
 けれど。
 足りない。
 こんなものだけでは、足りない。
 思い出は、こんなものだけでは満足できない。
 もっとたくさん話したかった。もっと笑顔を見たかった。
 もっと。もっと。もっと。


 人が増えて来た。
 顔見知りの町民達が、続々と。
 彼女を見送る人の数の多さに、泣きたい気持ちになる。
 彼女は皆に愛されているのだという事実が、他人のことのはずなのに胸を熱くする。
 だが、露伴個人の気持ちとしては。
 誰もいない方が良かった。
 第三者のいない、二人きりの場面でならば、自分は『漫画家岸辺露伴』でなくても良いのだから。
 ただ感情の赴くまま、素直に彼女に向き合えるのに。
 自分が何者であるのかを忘れ、何も考えずにただ思ったままに、彼女に語りかけることができるのに。
 人の目が気になるこんな場所で、彼女と別れなければならないことが不愉快だった。
 プライドの為に、大切な言葉を言えずに終わる自分。
 その姿を想像するのは容易で。
 皆が口々に彼女に語りかけるのを見ながら、ただ自分は彼女を見つめることしかできない。


 本当は随分前に気づいていた。
 この想いの正体に。
 これに名を付けるとしたら、何と呼ぶのか。
 本当は、ずっと前から知っていた。


 たった一度でいい。
 一瞬でいい。
 彼女を抱きしめたい。
 言葉なんて無粋なものはいらない。
 力なんか入らなくてもいい。
 ただ、触れるだけの一瞬でいい。


 彼女ならば。
 その一瞬だけで、露伴の思いの全てを知ってくれるだろうから。


 傍らに、アーノルドが擦り寄って来る。
 いつの間にか足元へ来ていたらしい。
「……おまえも、僕を理解してくれる」
 膝を折り、他の誰にも聞こえぬように、犬の耳元で呟いた。
 柔らかい毛並み。血の通わぬ、温もりのないその毛皮。
 そっと右手で撫でた。
 この感触を、自分はけして忘れない。
 触れられない彼女の代わりに、彼女の愛犬に触れる。
 代わりであっても、抱き寄せることは、やはり出来ない。人目が気になるから。
 だから。
 ただ撫でるだけ。
 そうして、スケッチブックを開き、一番後ろのページに、アーノルドの姿を描き込む。
「先生? こんな時まで仕事かよ?」
 誰かが後ろで、露伴に悪態を吐く。
「……誰が仕事なんかするものか」
 口の中で呟いた声は、きっと誰にも届かない。
 仕事じゃない。
 仕事だから描くんじゃない。
 描きたいから描くんだ。
 この犬が好きだから、だから描くんだ。
 いつか鈴美が言ったように。好きだから描く。
 自分は何も変わっていないことを見せつけるように、露伴はアーノルドを描く。
 鈴美の知っていた子供が、今も変わらずにここに存在する。それを見せつける為に。
 たとえ口に出さなくとも、鈴美はきっとわかってくれるはずだから。
 視線を交わさなくとも。
 言葉を交えなくとも。
 鈴美がこちらを見ている。視線を感じる。
 露伴は気づいていても、手を休めない。
 露伴が気づいていることを、鈴美はきっとわかっている。


 彼女の姿が見えなくなる最後の瞬間。
 露伴は彼女を見つめ、心の中で呼びかける。
 お姉ちゃん、と。
 思いの全てを乗せて、呼びかける。
 確かに、彼女と視線が絡まった。
 伝わったのだと、知る。

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