一言一言が宝物
あの男の始末がついたら。
その時、彼女はいなくなる。
ということはだ。
今こうやって駅前で張り込んで、毎日毎日写真を撮っている自分は、早くいなくなれと彼女を追い立てているに等しい。
そんなことを思いながら、フィルムを入れ替える。
朝の駅前の雑踏は、ただ仕事の資料の為ならば露伴にとってはそれなりに面白い。
様々な人間の『朝』が垣間見える瞬間は、ただ観察しているだけなら楽しめる。
しかし。
仕事から離れた作業でしかないこれは、意外に神経を使う。
それに何より。
頭から離れないのは。
「……寝不足だ」
寝ていないから、余計なことばかり考えるに違いない。
昨夜。
深夜にふらりとあの小道に入り、そして特に何をするでもなく過ごした数十分。
ろくに話もせずに帰って来てしまった昨夜の自分。
彼女はただ、佇んでいた。
自分も、俯いてただ立っていた。
夜という時間が引き起こした、日常では起こり得ない不可思議な一時。
家に帰った後、冷たいシャワーを頭から浴び、そして眠れぬままに朝を迎えた。
一睡もしていないはずなのに、何故か二十時間以上眠りでもしたかのような気分になっている。
全てがリセットされ、けれど何処か怠い。そんな感覚。
「悪くはないんだ。悪くは……」
こんな朝の迎え方も、悪くはない。そう思える。
ファインダー越しの改札口。
こうやってレンズに収めた人間の中に、たった一人目的の人物が存在する。確実にその男を捕捉している。誰かはわからないまでも、捉えている。
遠回りなようで、けれど着実にそれは進む。
彼女が存在する時間を、どんどん削り取っているのは、自分自身。
後何回、彼女と会えるだろう。
何回彼女と会ったら、終わりが来るのだろう。
永久にそこにいて欲しいとは思わない。
「そんなのは残酷だ……」
十年二十年。彼女だけが変わらずにそこにいて、自分達の時間はおそろしいほど早く流れて行く。
それは駄目だ。それだけは駄目だ。
そう、思うのに。
シャッター音が繰り返される。
その音を聞いた回数の分だけ、彼女が存在する時間は減って行く。
オーソンの目立つ看板が近づいて来る。
バスに乗らずにここまで歩いて帰って来た。
回り道をしながら、ゆっくりと。
見回した周囲。
人通りは、常と同じく。
昼間はこんなに人が少ない。この風景だけを毎日毎日眺めて、彼女は過ごして来た。
バス停の前で立ち止まる。
時刻表を見るふりをしながら、しかし耳は腕時計の秒針の音を拾う。
バスには乗らない。
ただ意味もなく見つめる時刻表。
このまま引き返そうか?
そんな戸惑いすら沸き起こる。
もし仮に、オーソンの前に行き着いたとして。
そのまま通り過ぎようとしたとして。
彼女が小道から出ていないと、どうして言い切れるだろう。
もし彼女が出て来ていたら。
昨日の今日では気まずい。
だが、仮にも岸辺露伴ともあろう者が、敵前逃亡のような真似をするわけにはいかない。
それこそ、らしくない行動だ。
毅然と、いつもの通り、何事も無かったかのような顔をして歩くべきだ。
自分には、それができるはずなのだから。
オーソンの前を、足早に通り過ぎる。
横の小道など目に入らないかように、正面だけを見て。
今。
視線を僅かに右に逸らしたら。
きっと、小道のポストが見える。
その奥に広がるのは、無人の住宅街。
彼女が歩いているのは、角を曲がった先。もっと奥。
外からは見えにくい場所を、彼女は歩いている。
だから。
さりげなく、一瞬だけ。
ちらりと見る分には、きっと大丈夫。
頭の中は、昨夜の彼女で一杯になっている。
十六歳で時が止まったとは思えないほど、彼女は慈愛に満ちている。
露伴を見ただけで、それだけで全てを察したのだろう。言葉は殆ど掛けられなかった。何も言わずに、ただ立っていてくれた。
正直、救われた。
柔らかい、優しい響きの声に。
彼女の呼ぶ「露伴ちゃん」という言葉さえもが、自分にとってはとても大切な物。
一言一言、全てが、かけがえのない響きを有す。
ただ呼ばれるだけだというのに。
ただ呼ばれているだけだというのに。
それだけに過ぎない語りかけが、宝物のように思える今。
露伴は素早く、右側へ視線を移す。
それは都合の良い幻覚ではなかったか。
一睡もしていない身が引き起こした白昼夢ではないのか。
「鈴……?」
彼女を何と呼べばいいのか、未だに露伴は迷っている。
そのために、声は途中で途切れる。
思わず足が止まる。
左肩にずっしりと感じるカメラの重み。それこそが現実だという証拠。
彼女は、十メートル先にいる。
ただ立っている。
昨夜と同じように立っている。
露伴の姿をその瞳に映し、微かに笑った。
唇が動く。
オヤスミナサイ、露伴チャン。
読心術は得意ではないが、多分、間違っていないと思う。
目の下に隈でも出来ているのだろうか。それとも、露伴の行動パターンを読まれているのか。
眠っていないと知られているらしかった。
早く帰って寝ろ。彼女はそう言いたいのだ。
「……ああ、そうするよ」
その言葉通りに。
何故なら。
突然、眠たくなったんだから。
声の届かない距離で、彼女がくれた言葉。
聞こえないそれさえも、自分には大切な物。
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