夜中に突然会いたくなる

 机に向かっていると時間を忘れる。
 窓の外。
 街路樹脇の街灯の光が目を焼く。
「……いつの間に暗くなったんだ?」
 時計を見遣れば、既に時刻は十二時を回っていた。
 軽く伸び上がり、そして立ち上がる。
 突然寒気を感じて周囲を見渡せば、窓が一枚開いたままになっていた。
 昼間一度、空気を入れ換えようかと開けた窓。夜の空気がそこから容赦なく入り込む。
 微かに。
 微かに、風の流れが耳を刺激する。
 僅かな音を拾う耳元で、イヤリングが少しだけ揺れた。
 首筋に断続的に当たる冷たい金属の感触。
 薄暗い室内。
 唇が、自然に開いて行く。
「……疲れた」
 疲れなど感じない。仕事をしていて、疲れなど感じない。
 けれど。
 明かりを灯すことのない家に、ただ一人佇んでいるこんな夜。
 独り言の種類は限られていて、決まって口を吐いて出るのは何処か後ろ向きな言葉。
 らしくないと思う。
 世間で噂される『高慢な漫画家岸辺露伴』は、どんな時でも自信に満ち溢れていなければならない。
 それができない夜も、ある。


 部屋着のまま外に出た。
 住宅街は静まり返り、家の中にいた方がまだましだったと思わせる。
 そして。
 足は。
 自然と、ある場所を目指していた。


「誰?」
 切れかかった街灯。
 数秒に一度だけ灯るそれの下。
 近づく人影に気づき、鈴美は探るように呼びかけた。
 が。
 足元のアーノルドは唸らない。
 唸らないどころか、鈴美より先に前に出、件の人物の元へと歩き出している。
 その動きに、警戒心など全く見て取れない。
 それだけで鈴美は、闇の中の人物が誰なのかを察する。
「露伴ちゃん……?」
 暗闇のシルエットは、いつもと少し違う。
 何かが欠けていた。
 そう、手荷物が無い。
 いつもいつも、彼は何かを肩に提げていた。
 それはカメラボックスだったり、スケッチブックだったり。その時々によって違ってはいるが、大抵、彼が持っているのは仕事道具。
 いつ何処で仕事に結びつくかもしれない何事かに出会うかわからないから、その為の備えは怠らないのだ。以前に彼はそう言った。
 その露伴が、手ぶらで外を歩く。
 常にはないそんな姿に、鈴美は眉を寄せた。
「露伴ちゃん、こんな時間に外を歩くのは危ないわよ」
 子供に呼びかける注意と同じことを口にし、鈴美はいつもと同じ笑顔で出迎える。
 先を行っていた愛犬は、既に彼の足元に達し、甘えた声を出している。
 霊となってからはその感情を殆ど現さなくなった愛犬も、彼に対しては何か感じるところがあるのか、かつてのような振る舞いをする。
 一緒に散歩に行ったことや、じゃれて遊んだことを思い出すのかもしれない。
 生きていた頃の記憶が、彼の存在によって呼び覚まされるのかもしれない。
 十年以上ここで二人きりだった鈴美だけが、この愛犬のそんな変化がどれほど驚嘆すべき事態なのかを知っている。
 だが、長い年月を経て帰って来た彼に、それについて教えてはいない。
 彼はすぐに戸惑った顔をして、そして皮肉な笑顔の奥で辛そうな目をする。
 だから、言えない。
 彼に語りたいことは沢山あるのだけれど、その殆どは鈴美の胸にしまっておくしかない。
 何も知らない露伴は、足元の犬の存在など目に入っていないかのように、鈴美を見つめている。
「露伴ちゃん?」
 無言の彼の、失われた表情。
 答えの返らない問いかけを、繰り返す。


 アーノルドが足元から離れない。
 気づいていたが、積極的に屈み込んで触れようという気持ちになれない。
 本当は。
 この小道に入る前から、台詞は用意してあった。
 鈴美の顔を見たら言おうと選んであった台詞が、幾つもあった。
 こんな時間に何をしているのかと問われたら、散歩だと答える。仕事の気晴らしだと。
 何故敢えてこの道に来たのかを問われれば、幽霊ならば眠らないだろうから、と答える。話し相手としては少々不服だが、選ぶ余地のない時間帯なのだから仕方がない。僕に選ばれたことを感謝したまえ、と。
 言い訳は幾つでも用意できた。
 ところが、実際彼女の前に立った瞬間から、全ての言葉に詰まる。
 嘘はもうたくさんだと、吐き捨てるような口調で自分の中の誰かが叫ぶ。
 先程から、何度か名を呼ばれた。
「露伴ちゃん?」
 幼い子供に呼びかけるような、あの呼称で。
 異性として意識されていないことを喜ぶべきか。そう呼ばれた瞬間から一気に子供に還ってしまう自分自身を恨むべきか。
 古い街灯は切れかかっている。
 不規則な、耳の奥に残る音を時折響かせ、そしてそのタイミングで明かりが灯る。一瞬だけ。
 すぐにまた暗くなる周囲。
 その僅かな間に、彼女の姿が浮かび上がる。
 闇夜に光を放たぬ霊で良かったと。
 何処かで安堵する。
 子供のように、感情の隠せない顔をしている自分。今なら、見られずに済むことも。
 彼女の姿自体を、完璧に捉えられない薄暗がりにも。
 目を、閉じる。
 俯いたまま、目を閉じる。
「露伴ちゃん?」
 足音が聞こえる。
 それに重なるように、柔らかな声もまた。
 この響きに、何も揺さぶられない記憶が恨めしい。
 けれど悪くないその響き。
 こんな夜は、まだ少女の、そんな純粋な声に救われる。
「露伴ちゃん?」
 足に、犬が擦り寄って来る。
 動物だからだろうか。人の感情の移ろいに敏感な性を持つ彼は、露伴の足に頭を寄せる。
 こいつの飼い主も、やはり敏感なのだろうか。
 たとえ他の人間に対し鈍感であったとしても、露伴のことだけは鋭く見抜く彼女のことだから、隠すだけ無駄なのかもしれないが。
 それでも。
 相手は死人なのに。
 年下に見えるけれど、本当はもっとずっと上なのに。
 自分は弟程度にしか思われていないのに。
 それでも。


 あと一歩で手が触れる。
 そんな距離まで縮まった時。
 俯いたままの露伴の唇が吐息と共に紡ぐのは。
 小道の静寂の中であっても聞き取れない、吐息だけの言葉。
「……急に、会いたくなったんだ」
 アーノルドだけが、その声にならない音を拾い顔を上げる。

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