この思いをなんと呼ぼう

「いつもスケッチブックを持ってるのね、露伴ちゃん」
 改めて言うことでもないだろうが、鈴美は露伴の肩に掛けられたそれを指差す。
「……それがどうかしたかい?」
 二人きりの時間は、時々気まずい。
 見上げて来る彼女を、正視できない瞬間がある。
 そんな時露伴は、決まって目を逸らし、いつも以上にぶっきらぼうな口調になる。
 腕を組み、逸らした目は空を見上げる。
 日が高い。夏が近い。
 思わず翳した手。細めた目に映る太陽。
 眩しいのは、頭上のそれだけとは限らない。
 横に立つ瞳も、それと等しく。
「いつも何を描いてるの?」
「何でも。これと思ったものは全部」
 露伴の視線が何処にあっても、鈴美はあまり気にしないらしい。話を続けて来る。
 空を見上げたまま、露伴は次の言葉を待つ。
「仕事に使うものだけしか描かないの?」
「……その為に持ち歩いているんだ。当然じゃないか」
 小馬鹿にしたような言い方しか出来ない自分を叱咤したくなる。
 それでも。
 何処かで感じていることがある。
 彼女はきっと、わかってくれていると。
 そんな言い方しかできない自分を、わかってくれていると。
 訂正することも否定することも、彼女には必要ない。きっとわかっているのだと。
「気に入ったものとか、そういうのは描かないの?」
「……気に入ったから描くんだが?」
「そういうことじゃないわよ。仕事には全然関係ないけど、好きだから描きたいっていうのは?」
 袖を軽く引かれた。
 幽霊が物を掴む、という現象は不可思議だ。
 だが感謝したい。
 会話することと同様に、触れることも可能なこの現象。
 彼女を、まるで生きてここにいるかのように見せる。それはふとした瞬間に、死んでいることを忘れさせる。
 だから余計に、目を合わせられない。
「悪いが……何を言いたいのか、よくわからないんだが……?」
 ちらりと、目だけを動かして確認した鈴美の顔。
 見上げられているのに。幼い子供を見守るような表情が浮かんでいるようで。
 被害妄想だ。
 舌打ちしたいくらいに腹立たしい。自分が。
「仕事仕事って……露伴ちゃん、無理してるでしょ?」
「無理じゃない。僕は僕のペースで仕事をしている」
 はたから見れば、確かに露伴のスケジュールは余人のそれとは比べものにならない。
 だが露伴にとっては苦痛ではない。
「ストレス溜まらないの?」
「仕事でストレス? この僕が? ……僕を誰だと思ってるんだ? 有り得ないね」
 鼻で笑い飛ばしても、鈴美は怒らない。
 彼女が気を損ねないと知っているから、露伴はそんな行動をわざと、する。
「嘘ばっかり。あたしの知ってる露伴ちゃんは意地っ張りな子だったけど、そういうところは変わってないのね」
「ほう……じゃあ、どこか変わったところがあるとでも?」
 変わっていて当然なのだ。
 子供は成長するものだから。良い意味でも、悪い意味でも。
「そうねぇ……」
 指を唇に当て、露伴を上から下まで何度も見遣る。
 何度も、何度も。
 観察するような視線に晒され続けるのは、居心地が悪い。
 露伴はまた、空を見上げた。
 陽は、木立の向こう。
 晒した五本の指の形で区切られる光。
 眩しいのは。


 二人きりが嫌ならば、帰ればいい。
 そう思うのに、足は地面に縫いつけられたように動こうとしない。
 陽射しがきつい。
 木陰へ移動した方がいい。
 日焼けをするから。
 開き掛けた口は、けれど最初の音すら発しない。
 幽霊は、日焼けなんかしないんだった。それを思い出したから。
「露伴ちゃんは全然変わってない。昔のままよ」
 四歳児のままだと言われて喜ぶ人間がいるだろうか。不快感を顕わにしようとしたが、鈴美の次の言葉に遮られる。
「でも……露伴ちゃんはお絵描きが好きだったから描いてたの。仕事だから描いてたんじゃないわ」
 十六歳の小娘が、わかったような口を利く。
 けれど。
 核心をつくその言葉には、一体どんな台詞で逆らえばいいのだろう。
 言葉に詰まる。
 胸が、詰まる。
 呼吸が、詰まる。


 彼女の姿が、もっと違っていたら。
 彼女の外見が、せめて露伴よりも年上に見えていたら。


 今すぐその胸に縋り付けるのに。


「……何……馬鹿なことを考えてるんだ、僕は……」
 噛み締めた唇から漏れた言葉。
「え? 何、露伴ちゃん? 何か言った?」
 今度は俯いてしまった露伴を、鈴美は下から覗き込む。
 大きな瞳が、露伴の表情全てを見つめる。
 彼女だけは。
 彼女だけが、スタンドも使わずに、ただその心だけで、露伴の全てを読み取ってしまう。
 隠さなければ。
 気持ちの全てを、覆い隠さなければ。
「……好きだから、この仕事をしているんだ。……言いたいことはそれだけか? くだらないな」
 軽蔑したりしない。
 馬鹿にもしていない。
 けれど。
 彼女に見破られたくない本心は、幾つもある。
 隠すために、露伴はわざと尊大な態度をとり続ける。
「それとも? 僕に君の似顔絵でも描けって言いたいのかい? この岸辺露伴に?」
 横に立つ鈴美は、『似顔絵』の言葉に、一瞬きょとんとした後、すぐにまた笑顔を浮かべる。
「露伴ちゃんが描いてくれるの? ……でも、昔たくさん描いてもらったから、今はいいわ」
「そうかい、じゃあ二度と描かないよ!」
「あら……? 本当は描きたかったの?」
 なんだ、これは。拗ねた子供じゃないか。
 わかっていても、露伴は自分を抑えられない。
「まさか! 頼まれたって、君の顔なんか描かないね! 君だけじゃない、他の誰の似顔絵もだ! 二度と僕に似顔絵の話なんかしないでくれたまえ!」
 くすりと笑う鈴美の姿が、その細い身体が離れて行くのが。
「わかったわよ。怒らないで、露伴ちゃん。また遊びに来てね」
 片手を振る彼女が。
 背を向けて、歩いて行く彼女が。
 この、胸を締め付ける思いは何だろう。
 彼女を見送る時、必ず感じるこの痛みは何だろう。
 手を翳す。
 指の隙間に映る彼女の姿。
 ぼやけた視界に、途切れがちな彼女の姿。
 十六歳に見えるようで見えない、ぼんやりとしか捉えられないその形。
 年齢などわからなくなるくらい遠離ってくれたら。
 もっと遠離って、姿形がはっきりとわからなくなってくれたら。
 この想いを、何と呼ぶのか。薄れる姿に比例するように、その名も思い浮かべられる。

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