承太郎の部屋を訪ねた翌朝、露伴は珍しく早起きだった。
 起きようと思って起きたわけではなく、仕事も無かったので、いつもより早寝したせいだ。
 これまでの疲れが一気に出たようで、ベッドに入ると同時に眠った。
 そしてすっきりと目覚めてしまった。
 かといって、今日の予定など特にない。
 どう過ごすか。
 もう、吉良吉影を捜し回る必要もなくなった。
 敵に襲われる、ということも、今後はないだろう。
 リビングで見るとはなしに、テレビの朝のニュースを眺めていると、急に、部屋の中が広く感じられた。
 今まで、こんなこと感じなかった。
 少し肌寒い。
 馬鹿な。
 夏だっていうのに。
 寂しくなったりなんかしない。
 今までだって、こうやって一人きりだったじゃないか。
 一人でいたいから、こんな生活をして来たんじゃないか。
 それを今更、何だっていうんだ?
 良くない考えを振り払うかのように、露伴は外に飛び出した。
「先生、おはようございます」
 途端に、通勤中の近所の会社員と目が合い、親しげに声を掛けられる。
「おはよう、先生。今日も良い天気ですよ」
 ゴミ袋を両手にぶら下げた主婦までもが、露伴の姿を認め、そう話しかける。
 こんな風に、誰もが気安く声を掛けられるような、そんな存在に、いつから自分はなってしまったのだろう。


 ふらふらと町を歩き回る露伴に、何人かが挨拶をする。
 ただ一言、「おはようございます」と微笑まれる。
 以前は、そんなことをされようものなら、すぐに顔に出た。迷惑だ、と。
 それがどういうわけか、今日はけして不快ではない。
 無理に嫌な顔を作ろうとして、何度も失敗する。
 こんな自分じゃなかったはずなのに。そればかりを繰り返す。
 慣らされたんだ。
 この町に来てから、あの連中と馴れ合うようになってから、全てに慣らされてしまったんだ。
 気づいても、もう戻れない。


「露伴君」
 まただ。
 呼び止められ、露伴はゆっくりと振り返る。
 声に覚えがあったからそうしたのだが、咄嗟にそれが誰だったか思い出せない。
「今日は仕事は休みかね?」
「……ジョースターさん」
 いつもと同じく、赤ん坊を抱いたその老人は、愛想がいい。
 年寄りは朝が早いそうだが、どうしていつも早朝から駅近くを徘徊しているのだろう。
 その答えは、聞かなくても勝手に話してくれる。
「聞いていると思うが、じきにここを発つことになったんで、見納めに色々と回っているんじゃよ」
「……その子は、どうするんです?」
 まだ、親は見つかっていなかったと思ったが。
「わしの養子にした。連れて行くよ」
「そうですか」
 確かに、それが一番良い方法かもしれない。露伴は納得し、それ以上何も話すべき事柄が思いつかない。
「元気がないようじゃが、仕事疲れかね?」
「そう見えますか?」
 いい歳をして随分元気なこの老人は、大きく頷く。
 そうか。
 疲れて見えるのか。
 疲れているのかもしれない。
 この数ヶ月を、こうやって振り返って、そして愕然としている今は。


 その瞬間、露伴は自分の自我を取り戻すかのように、とんでもない行動に出る。
「ヘブンズ・ドアー」
 まさか露伴がそんなことをするとは思っていなかったのか、老人はあっさり術中に落ちる。
 後で記憶を消しておけば、何の問題にもならない。
 露伴はそのページを、ゆっくりと捲る。
 特別、この老人の人生を見たかったわけではない。
 それを読んで仕事の参考にしようとか、ただ興味本位で見てみようとしていたわけでもない。
 今はなぜか、そうすることで、何かを取り戻せるような気がしただけだ。
 子供の頃の思い出。
 イギリスからアメリカへ。
 そしてその片腕を失った顛末。
 承太郎と共に旅立ったエジプト。
 いつもなら目を輝かせて見たであろうそれに、今は何の感慨も持ち得ない。
 ただ、見るだけ。
 見たことさえ、明日には忘れてしまいそうなくらい、露伴は殆ど中など読んでいなかった。
 最後の方に、この杜王町へ来てからの記述があった。
 そこには露伴もよく知る事実の幾つかが記載されている。
 そして、この町のスタンド使いについても。
 露伴を含む、彼等に対する評価。
 なぜかその部分だけは、露伴の中に深く刻まれる。
 面白い表現をする老人だ。
 そんなことを思っていたのか。
 そして露伴は本を閉じた。


「……じゃあ、僕はこれで」
「元気で。何かあったら、いつでも承太郎を呼びつけるといい」
 読まれたという事実を、この老人は知らない。
 露伴は素知らぬ顔で離れ、踵を返した。
 帰ろう。
 今日はもう、帰ろう。


 たった数ヶ月で、露伴の中の最も重大な何かが変化した。
 その自覚を、今になって覚えた自分も自分だ。
 しかし、もうやり直しは効かない。
 それでも何処かで、これも悪くないと認める自分もいる。
 仲間、なんて、ちょっと笑えるくらい恥ずかしい概念だと思っていたのに。
 今はまるで、それが当たり前のように、彼等を『仲間』だと言えてしまう。
 それでもいいか。
 良い作品を描く上で、生身の人間との触れ合いはけしてマイナスにはならないだろう。
 露伴という一人の人間としての人格その他はどうにもならない以上、けして人付き合いは上手くならない。
 それでも、あの連中は、そんなことなど構わずに露伴に近寄って来る。
 ならば、受け入れるしかない。
 もうじき夏も終わる。
 その前に、康一に言ってみようか。
 庭を使っていいから、皆で花火でもやらないか、と。

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