承太郎が、ついに杜王グランドホテルを引き払う。
 それを聞き、露伴が最初に思ったのは、「しまった、まだ読んでない」だった。


 噂によると、十年程前に大冒険をして来たというあの男。
 ジョセフ・ジョースターのそれと、両方読み比べてみたかった。
 いつか暇が出来たら、とそう思っていたのに。
 二、三日中には出発するという。
 露伴は一瞬、どうしようか迷ったが、ここで手を拱いていても仕方がないと、行動を開始する。


 いつものように、スケッチブックを抱え、露伴は外に出た。
 ホテルまで行く最短は、やはりバイクだろうか。
 しかし、スケッチブックを持っていては乗れない。乗ってもいいが、途中で見咎められて足止めを食らうと何の為にバイクに乗ったのかわからない。
 更に、ここでいつまでも考え込んでいても、時間ばかり過ぎてしまう。
 露伴はもう乗り物を使うのを諦め、歩き出す。
 一時間後に引き払うというわけではない。
 そこまで焦る必要はなかった。
 露伴はできるだけ気持ちを落ち着かせようと、そろそろ見飽きて来た街並みを眺めながら、ゆっくりと歩き続ける。


 間が悪い。
 ロビーに着くなり、そう思った。
 今、そこにいるのは、康一と億泰。
 あの二人だけが出て来たということは、だ。
 おそらく上には、仗助が残っている。
 家族だけで、何か話をしている可能性が高い。その三人に気を利かせる形で、この二人は先に出て来たに違いなかった。
 今エレベーターから降りて来た。つまり、まだ数分前のこと。だとすると、三十分以上は承太郎に近づけない。
 露伴は二人に気づかれないように、柱の陰に身を寄せる。
 仗助が帰る姿がよく見え、かつ自分の存在を知られない場所。
 考えるまでもない。
 すぐ目の前にある、このラウンジ。
 露伴は二人がホテルから出るのを最後まで見届け、そちらに移動する。
 今日は仕事の予定もない。
 一時間でも二時間でも、ここで待っていられるだろう。
 露伴はロビーを一番よく見渡せそうな席を選び、座るなり、スケッチブックを開いた。
 ここで何か観察していれば、時間はあっという間に過ぎて行く。
 そんなことを思いながら、ペンを握った。


 夢中になってペンを走らせていた露伴が顔を上げたのは、三時間後だった。
 スケッチブックは既に最後の一枚になっていた。
 久しぶりに来たホテルは、思いの外素材が多く、ついつい筆が乗ってしまった。
 時計を見て、露伴はその時間の経過に驚く。
 仗助はどうしただろう?
 露伴の知らぬ間に帰ってしまったか、まだいるのか。
 どちらとも言えず、露伴は数分、冷えた紅茶のカップを持ち上げたまま考え込む。
 もう三時間。
 いくら仗助でも、そこまで長居はしないのではないか、という結論を下し、露伴は立ち上がる。


 唐突に訪ねて来た露伴を見ても、承太郎は驚かなかった。
 無言で中へ招き入れる。
 室内には、承太郎の私物らしき物は殆どない。片隅に置かれたスーツケースの蓋が開いていることで、荷造りをしていたのだとわかる程度だ。
 元々、あまり物を持ち込んでいないのだろう。
 何ヶ月も泊まっていたとは思えないくらい、承太郎の色に染まっていない部屋。
 ホテルのパンフレットの写真を見ているのと変わらない。
 ざっと見回した段階で、部屋自体への興味はあっさり失せる。
「君にはいろいろと世話になった」
 ほんの二、三回飲み物を出したことくらいしか、露伴には思いつかない。本にサインはしてやったが、そんなものは露伴にとっては仕事の一環なので、世話の内に入っていない。
 だから曖昧に頷いた。
「それで、何か?」
 促され、露伴は適当な作り話をする。
「もうすぐ、杜王町を離れると聞いたんでね。僕はまだ、このホテルのスイートに来たことがないんだ。知り合いが泊まっている間に、一度見ておこうかと思った。それだけだ」
 そんなもの、露伴が自分で好きなだけ泊まれば済む問題だったが、承太郎は「そうか」と頷き、つまらない疑問は差し挟まない。
 やっぱり、やりにくい相手だ。
 何を言っても反応が変わらないから、却って不安になる。
 派手なリアクションをされるよりましだが、何の反応も無いってのも困るな。
「何か飲むか?」
 テーブルに乗せられていたのは、二人分の空いたグラス。
 さっきまでいたであろう、仗助の足跡。
 ルームサービスのメニューを手渡され、露伴はそれを開く。別に欲しくはないが、間が持たないのだから頼むしかないだろう。
「酒の方がいいか?」
 承太郎なりに気を遣っているのかもしれない。
 しかし、露伴は頭を振る。
「いや。僕は飲まない」
「珍しいな、その齢で」
 二十歳になって間もない人間の、誰もが酒浸りになるわけではない。
 特に露伴は、世間一般の二十歳とは多少ずれがある。
 全く飲めないというわけではないが、嗜む程度。強いかどうかと問われても、多分露伴にもわからない。そんなに無茶な飲み方はしたことがない。
「飲むなら、僕に遠慮せずにどうぞ」
「そうか。今も仗助と少し飲んだばかりだが……一人でやらせてもらう」
 言われてみれば、グラスの横にあるボトルは、アルコールだった。
「……未成年者にも飲ませたのか?」
「ああ。思っていたよりも酒に弱かったらしい。今、ジジイの部屋で休んでいる」
 弱かった、というのだろうか?
 スコッチをストレートで飲ませて?
「……好奇心から聞くんだが、仗助は何杯飲んだ?」
「俺よりは少ない。ほんの五、六杯だ」
 承太郎に勧められて、断れなかったのだろう。
 気の毒だとは思ったが、無理に飲み続けた仗助の方が悪い。
 確実にその倍は飲んでいるだろう承太郎は、普段と全く変わらない。
 まさか、もう抜けたのか?
 グラスの乾き具合からいって、多分、一時間ほど前のことだろう。
「速乾性の塗料並だな、貴方は」
「……?」
 承太郎が不審な顔をした。
「いや、こっちのことだ」
 露伴は敢えて説明せず、ソフトドリンクを一杯だけ貰いたいと告げた。
 最後の最後まで、理解できない男だ。
 もうそれでいいような気がしてきた。
 一人くらい、わからない男がいてもいい。
 頼んだドリンクを飲み干したら帰ろう。露伴はそう決めた。

メニューページへ
Topへ