逃げ足の早い仗助は、あっという間に遠くなる。
露伴はもう、追いかけるのは諦めていた。
そして。
背後に感じる、この不愉快な放熱。
舞い上がる火の粉。
急に、現実が露伴の前に戻ったようだった。
勝負がどうとか言っている場合ではない。
家をどうにかすることが、今は先決。
傍らには、呆然とする玉美。
ちゃっかり二百万円は持ち出している。
これだけ派手に燃えている状況で、二百万ぽっちが何の役に立つだろう。
この家にはその何倍もの金をつぎ込んでいるんだ。
玉美には計算できないだろうが。
放水を眺めながら、露伴はやっと自分を取り戻していた。
しまった。
何をぼんやりしていたんだ、僕は。
迷わず、露伴は玄関から家に飛び込む。
「せっ先生っ……!?」
露伴の行動にいち早く気づいたのはやはり玉美だったが、両手で大切に二百万を抱えていたため、露伴を止めることはできない。
「ちょっと、先生……!」
自分まで火の中に飛び込むのは嫌だったのだろう。玉美は一歩も動かず、ただ声だけ上げた。
家の中は、外から見た感じほど酷くはなかった。
ただ、煙だけは家中に充満しつつあるようだった。
幸い、殆どの部屋の窓を開けておいたおかげで、露伴が今歩き回れる程度で済んでいる。
まるで自分の家ではないかのようだった。
一歩進むごとに、気分が悪くなる。
原稿を送った後で本当に良かった。これが数時間前だったなら、折角描き上げたばかりの作品が灰になるところだったのだから。
そんなことを思いながら、露伴は階段を上る。
まだここまで火は回っていなかったようだ。
それでも慎重に一歩ずつ確かめながら進む。階段の途中で一階に転がり落ちるなんてことになったら、何の為にここまで上ったのかわからなくなる。
どうして今日に限って、一階に一冊も用意していなかったのか。
そんなことを悔やみながらも、二階へ急ぐ。
とにかく、仕事部屋に行かなければ。
そこまで行かなければ、スケッチブックが手に入らない。
急いでそれを取って、また外に出て。火が消える前に、火事現場を写しておかなければ。
このままどんどん燃えてしまっても困るが、露伴が描き写す前に消されるのも嫌だ。
少し、目が痛む。
こんな状態で外に出て、果たして火をまともに観察できるかどうかは疑問が残るが、やってみなければわからないことなのだから気にしている場合ではない。
階段を上り切る頃には、まともに呼吸ができなくなっていた。
熱い空気を吸い込んでも、余計に苦しくなるだけだとわかっていたが、それでも深呼吸をしてしまうこの身体。
なんだってこんなに面倒なんだ、人間の機能って奴は。
目が痛い。
息ができない。
熱い。
たかが火が出たくらいで、こんなに面倒な思いをしなければならないとは。
それでも露伴は仕事部屋を目指した。
改めて見渡した自分の家の二階。
まるで、知らない他人の家のようだ。
火が出たくらいで、こんなに印象が違うのか。
昔読んだ、何かの本のくだりを思い出す。
古い廃屋に、紛れ込んだ人間の話。
そこに住んでいたのは……
足の力が一気に抜けた。
立ち上がる気力さえも奪う、忌々しい熱と煙。
廊下の壁に凭れ、露伴は仕事部屋の扉を見つめる。
いつもなら、ほんの二、三歩で行ってしまうってのに。
今はこの距離さえも遠く感じる。
まず立ち上がれ。そしてそこまで走って行け。そしてスケッチブックを取って。後は、今来た道を戻ればいい。それだけだ。
簡単なことじゃないか。
霞む家の中。
この目のせいなのか。
知らない、一度も入ったことのない、誰かの家の中のようで、不安になる。
本当に、あの扉の奥は、露伴の仕事部屋なのか。
あの扉を開けた先に、露伴の知る、露伴の部屋はあるのか。
「……何を馬鹿なことを考えているんだ、僕は」
何を弱気になっているのか。つまらないことを考えている自分に気づき、苦笑する。
声が聞こえた。
頭の奥底で。
記憶の淵で。
『お昼に会った、おまわりさんの所よ。いい? 走るのよ? 急いで! 振り返っちゃだめよ!』
声に、聞き覚えがあった。
つい最近知り合った、小娘の声と同じだった。
これは露伴の作り上げた幻想なのか、それとも真実起こったことなのか。
住む者一人いない、荒れ果てた古い屋敷の連なる、あの小道。
あれはかつて、露伴が住んでいた街並みの成れの果て。
今なら。今あそこに行けば、何か思い出せるかもしれない。
「……ぼんやりしていたら死ぬな」
自分から火の中に飛び込んでおきながら、生きて帰れなかったなど、露伴としてはあまり嬉しくない死に方だ。
それも、大事な原稿を守るためというならまだましだろうが、火事見物をするのに必要なスケッチブックを取りに行って火に巻かれたというのは、岸辺露伴の死に方としては不名誉過ぎる。
露伴はゆっくりと両手に力を込め、柱に捕まる。
まだこの柱は無事だったようだ。
そして立ち上がり、仕事部屋だと思われる扉の前に進む。
急に、意識がはっきりした。
ここは露伴の家。
妙な錯覚はもう起こらない。
ここは露伴の家。
それと同時に、頭の中で響き続けていたあの声は遠ざかり、再び記憶の闇に沈み込む。
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