カフェ・ドゥ・マゴの唯一の空席をジャンケンで勝ち取った瞬間、自分でも信じられないくらい嬉しかった。
 迷惑な奴を負かすのは本当に楽しい。たとえそれが年端も行かない子供であっても。
 高校生三人がまだ呆れた表情でいるのには気づいていたが、こんな奴らにどう思われようと気にならないので、露伴は構わず注文を済ませる。
 徐に顔を上げた時、既に目に付く所に小僧の姿はない。
 諦めて帰ったか。
 それにしても、一日にこう何度も会うということは、まさか露伴の後をつけてでもいるのか。でなければ、行く先々で鉢合わせするはずがない。
 なんとなく気になったので、さりげなく周囲を見回してみたが、あの小さな身体はどこに潜り込んだのか、やはり見つけられない。
 どうかしている。
 あんな子供の挙動を気にするなんて。
 どうでもいいことじゃないか。
 注文した飲み物が来るまでの間、露伴はスケッチブックを開き、ペンを握る。
 まだ白紙のそこに、何かを描くでもなく、ただ眺める。
 先程描き終えた原稿のことを思い出し、今後の展開について考え始めた。
 描きためるつもりはなかったのだが、向こうのテーブルにいる三人に、今はまだ仕事中だと言ってしまった手前、やむを得ない。
 しかし初めてしまうと、すぐに露伴は格好だけでなく、本当に仕事に入り込む。


 ペンを走らせていたその時、近くのテーブルで何かを転がす音が聞こえた。
 何かの小瓶がテーブルの上を滑る音。
「?」
 それが何か、すぐには思い出せなくて、露伴は顔を上げた。
 音が聞こえたのは。
「……あいつらか」
 三人はまだのんびりとそこにいた。
 由花子が鞄から何かを取り出そうとした弾みで、中からマニキュアの瓶が落ちたらしい。
 三人と目を合わせないようにしながら、露伴はそっとその様子を盗み見る。
 高校生の癖に、どうして学生鞄の中にそんな物が入っているんだ? 学校に行くのに、そんな物が必要なのか?
 由花子はごくごく自然に、その零れ出た小瓶を掴み、また鞄の中に収めた。
 そしてまた、三人での会話に戻って行く。
 考えてみればその組み合わせは少し不自然ではあった。どうして仗助と億泰と由花子で寛いでいるのか、露伴にはよくわからない。
 いつの間にか、彼等も和解したということなのだろうが。
 間に康一が入っているのなら、まだわかる。
 康一抜きで、三人で午後のティータイムを楽しむ。そんな構図を見ることになるとは思わなかった。
 仗助と億泰は、この女が苦手だとばかり思っていたのに。
 露伴の知らないうちに、高校生は高校生同士、うまくやっているということか。
 だが。
 この僕は違う。
 僕は違うぞ。
 そんな馴れ合いに、参加なんかするものか。
 仲間だから、とそんな説得力の無い理由で馴れ馴れしくされたくはない。
 だから今だって、こうやって離れて座っているじゃないか。
 三人の座るテーブルには、もう一つ、椅子が余っている。
 あれは誰の為の席だろう。
 誰か知り合いが来た時に、また仗助は誘うのだろう。ここに座って、一緒に話をしようと。
 つい数分前は、それは露伴の為の空席だった。
 今は違う。
 今は誰の席でもない。
 何より、露伴の席でないことだけははっきりしている。


 ペンが止まる。
 由花子の指先で、視線は固定される。
 マニキュアは塗っていない。
 あんな女でも、学校に行く時と私生活は区別するものなんだな。
 その点だけは褒めてやってもいいと思う。
 もしかしたら康一に言われてやめているだけなのかもしれないが、どちらにせよ、学校に行く時は塗らないと決めているのなら同じことだ。
 細い指先は、それなりに綺麗だった。
 普段手を何に使っているのか知らないが、生活感の無い手だ。
「……手、か」
 今、何か思いつきかけた。
 何か、使えそうな。
 完全に手を止め、露伴は目を閉じる。
 ここは何かを生み出すのには相応しくない環境だが、贅沢は言っていられない。
 雑踏。
 足音。
 話し声。
 ざわめき。
 はっきり言って、かなりうるさい。集中できないじゃないか。
 しかし露伴は構わず、今一番重要なことに意識を移す。
 簡単に、露伴の耳から雑音は消せる。
 もう聞こえない。
 余計な音は聞こえない。
 ほら見ろ。
 僕はどこでだって、こんなに簡単に仕事に入れるんだ。
 この僕にできないことなんかないんだ。


 話が途切れたので、億泰は落ち着かなくなってきょろきょろし始めた。
 ところで、あの我が儘野郎はどうしているか、とそちらに目を遣る。
「なあ、仗助。……あいつ、何やってんだ?」
 億泰に促され、仗助と由花子もそちらを振り返る。
 見れば、先程子供相手に本気になっていた岸辺露伴が、スケッチブックを開いたまま、俯いて目を伏せている。ペンは持っているものの、動かす気配はない。
 その苦渋に満ちた表情は、露伴のテーブルの空気だけを陰鬱な物に変えようとしていた。
 あの漫画家のやることなんて、わかるはずがない。
 仗助は適当に唸った後、さほど考えずに答える。
「さあな。なんか悩みでもあるんじゃねぇの?」
 間髪置かず、由花子が意見を述べる。
「子供にしたことを後悔してるんじゃないの?」
「……そんな殊勝な奴じゃねーよ、岸辺露伴は」
 が。
 確かにその表情は、そうとも読み取れそうで、仗助と億泰も言いながら「もしかしたらそうかな?」といった感じに顔を見合わせる。
「仕事中だって言ってたろ。なんか煮詰まってんだよ、きっと」
 三人はそれで話を打ち切り、また他愛もないジョークを飛ばし合う。

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