早朝の駅で、他人の視線など全く意に介さない雰囲気でカメラを構える露伴の肩を、誰かがポンと叩いた。
 ラッシュ時を過ぎ、通勤するらしい人間の姿も疎らになった頃で、露伴もそろそろ引き揚げようかと考えていたところだった。
「よっ先生、精が出るね」
 朝っぱらから馴れ馴れしく話しかけて来た男。見覚えがあった。
 初めて顔を合わせたのは病院だった。露伴は彼の顔だけ知っており、相手は露伴の名前だけを知っていた。
 それだけのことだったので、あれ以来一度も連絡など取っていなかった。
「君か……」
 露伴の方が先に退院したのだが、頭を打ったとかいうこの男はいつ出て来たのだろう。
「地味だけど根気のいる作業だよ、こういうのは」
 わかったような口を利く。
 小林玉美は腕を組み、うんうんと頷く。
「ところで先生、朝飯は?」
「まだだが?」
 こういうパターンは、奢らされる場合が多い。
 やや警戒する露伴に気づかず、玉美はその肩をまた叩いて顔を綻ばせる。
「そりゃ良かった。一緒にどうです? 奢りますよ」
 敬語を使われているが、確か、齢は一緒だったはずだ。
 同年代の友人など持ったこともない露伴は、敬語を使われても違和感など感じないが。
 それより露伴が気になったのは、「奢りますよ」の方だ。
 強請やたかりで生活しているこの男が、他人に食事を奢ることもあるのか。
 年収の問題などを加味し、だったら自分が奢る、と言い出すべきところではあったが、露伴にそんな発想は有り得ない。
 何か妙だとは思ったが、玉美の後について改札前から離れる。


 奢ってくれると言われて、普通にどこかの店を想像していた露伴は、玉美がコンビニに入って行くのを見て少しだけ驚いた。
 なるほど、そういうことか。
 確かに奢りは奢りだ。
 玉美ならばこの程度が精一杯か。
 だが僅かではあっても、玉美の方から金を出す、というのは尋常ではない。
 既に玉美の頭の中は読ませてもらってある。この男が金銭に関して抱く妄執は常人の比ではない。そんな男が、百円二百円であっても出す、というのだから、自然興味も湧いた。
 本当なら、コンビニに入ろうとした時点で露伴は帰っていてもおかしくない。
 玉美の後に続いて中に入り、その後ろを着いて行く。
「先生、鮭と梅どっちがいい?」
「五目にさせてもらおう」
 他意はない。
 そこに並ぶおにぎりの中で、どちらかといえば今はそれが良かっただけだ。
 但し、露伴の示した方が、他よりも何十円か高い。
「……朝はやっぱり白い飯がいいですよ、先生。日本人なんだから」
 基本的な生活スタイルが、若干ヨーロッパ寄りな露伴にその言葉はあまり意味を成さない。
「鮭にしましょう、鮭に。焼き鮭と白飯。やっぱり朝飯はこれに限りますねー」
 露伴の嗜好に合わせていると、予定していた以上に高くつくと判断したか、玉美は勝手におにぎりを掴み取り、早足でレジへ向かう。
 別にどちらでも良かったので、露伴は何も言わずにその後に続く。鮭が嫌いなわけでもなければ、食べたくないというわけでもない。


 袋を下げた玉美は、そのまま駅前のベンチに露伴を誘う。
「いいですねぇ、平日にこうやってのんびり飯が食えるってのは。ほら、あんなネクタイ締めて時計ばっかり気にしてる奴らを見ながら食う飯は美味いですねー」
「君は会社勤めを馬鹿にしているだが、普通の会社員になれないひがみ根性でそう言ってるのかね?」
 好奇心でそう聞いた。
 まともな人間が相手ならば、露伴のこんな物言いに怒りを露わにしても良さそうなものだったが、玉美は全く頓着せず、自然に受け流す。
「冗談でしょう、先生? 先生だって、会社勤めしたことないんだから、俺がそういう気持ちになってないことくらい分かるんじゃないの?」
「僕は人間の多い環境に馴染めないから、一人で出来る仕事をしているだけだ」
「俺だって似たようなもんですよ、先生。毎日決まった時間に決まったことするの、苦手なんだよなー」
 どちらも、真っ当な社会人が聞けば「ふざけるな」と言われそうな論理ではある。が、当人達はそれなりに通じ合っているので気にならない。
「先生、お茶もありますよ」
 まだ冷たい缶入りの緑茶を手渡され、露伴は「ありがとう」と受け取る。
 口に運んだ中身は、多少温くなっていた。
「先生はいいよなあ。手に職持ってて。俺は人から金巻き上げるくらいしか取り柄ないんで、毎日毎日大変ですよ」
 そういうものも取り柄と言うのか。露伴はこれまであまり気にしたことがなかったので、「ふうん」と呟き、納得する。
「だったら、その才能を活かせばいいんじゃないのか? 幸い、能力もそれ向きだ」
「そんな都合の良い仕事あるんですかねえ?」
「考えれば何か思いつくだろう」
「……先生は考えてくれないんですね?」
 当然だ。
 どうしてこの露伴が、玉美のためなんかに頭を捻らなければならないんだ。
 温めもしなかったおにぎりは、冷たい上に固い。
 緑茶で流し込み、露伴も玉美につられて通行人を見つめる。
 言われてみれば、やりたくない仕事をやらずに済む才能があるのは素晴らしいことだ。
 露伴の家のクローゼットの中には、背広など一着も入っていない。仕立てたこともなければ、作ろうと思ったことすらない。
 二年か三年、いや、十年が過ぎた頃には、今高校に通っている人間も社会に出て、ああやって通勤するだろう。もうそんな生活にも慣れて、着慣れなかったスーツもしっくり来るようになって、毎日毎日を会社と家の往復で終わらせるようになるだろう。
 きっと露伴は、その頃になっても、こうやってそんな彼等を見ているだけだろう。
 だが、こいつは?
 今横に座っているこいつは?
 十年経っても、この男は露伴と同じように世間を見ているだろうか。


「君は毎日何をやって過ごしているんだ? ただの好奇心だがね」
 読めばわかることだったが、敢えてこの場は本人の口から聞いてみたくなった。
「毎日ですか? そうだなあ……公園で犬をからかったり、日雇いのバイトに行ってみたり、ま、適当にぶらぶらと」
「だろうな」
 しかしそんな生活に嫌気がさしているという風でもない。
 こいつはこいつで、そんな自分に満足しているのだろう。
「先生は? まさか一日中仕事してるってわけじゃないんでしょう?」
 思い出したようにそう問われ、露伴も一瞬考える。
「僕の生活は、一から十まで、良い仕事をするためにあるんでね。遊んでいるように見えるかもしれないが、暇ってわけじゃない」
「そういうもんですかねえ」
 世間から切り離されたこの生活。
 それでも時々思うことがある。
 拒絶しているのは露伴の方なのに、月日が経てば、世の中の流れから、こちらが置いて行かれているような気持ちになる。
 この男は、そう思わないのだろうか。
「今日は何やろうかねえ……久しぶりにパチンコでも行くか」
 ぼんやりと人の流れを見ていた玉美は、そう呟いた。
 この男はきっと、思わないんだろうな。
 もしかしたら、五年後十年後も、この男はこうやってベンチに座っているのかもしれない。
 そんな玉美の姿を、露伴も時々は見掛けるのかもしれない。
「先生、もう一個ずつ買ったんで、どうぞ」
 冷たいままのおにぎりをまた一つ手渡される。
 露伴は無言でそれを受け取り、半分以上残っていた緑茶を一口含む。

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