仕事を終えた直後が一番きつい。露伴はいつもそう感じる。
 世の中の漫画家連中は逆で、全て終えた時に心が安まるという。どうせそれまで徹夜に徹夜を重ねて、締め切りも延ばせるだけ延ばし、体力の限界まで机に齧り付いているからだろうが。
 この露伴はそういう凡人共とは違う。
 仕事をしている時ほど充実している時間はない。
 そして、描き終えたその瞬間を迎え、振り返ってみれば自分の中に何一つ残されていないあの空虚と不安。
 次に何か描き始めるまで、それは続く。


 丁度今も、その状態だった。
 康一を帰し、露伴は汚れた二人分のカップと皿を食器洗い乾燥機に放り込む。
 一人きりになると、結局意識はそちらに向いてしまう。
 この作品。
 さっきは傑作だと思った。
 ペンを置く瞬間まで、今まで最高の出来だと信じていた。
 だが今は。
 想像するのも嫌になる。
 いつもと同じこの繰り返し。
 何か別のことを考えようとすればするほど、余計に気になる。
 こういう時はさっさと寝よう。
 描き始めたのは確か、昨夜だった。深夜に突然目が覚めて、そして今がそうだと確信して机に向かった。それからつい先刻、康一が来る少し前まで、ずっと描き続けた。
 とりあえず睡眠時間が足りていないのは間違いないし、次に備えて体力も温存しておかなければならず、寝不足のぼんやりした頭では浮かぶ物も浮かばない。
 寝よう。


 寝室に向かい、露伴はベッドを整える。
 夜中起き出した時からそのままになっていたので、まずシーツを替えた。納得の行く仕事をした後は、全てを一新しなければならないような気持ちになる。いつもそうだ。
 何もかも新しく。
 物理的な物事をそうすることで、内面にも同様の変化が訪れるような気がするので。ただの気のせいだとはわかっているのだが、これはもう十六の頃から続けており、今ではただの儀式のようなものに過ぎない。
 時計は丁度午後六時。
 妙な時間に昼食を摂ってしまったので、今夜は夕食抜きでいい。目覚めた時に何か食べよう。また真夜中に目覚めそうな気もするが、別に規則正しく生活する必要はないのだから問題にはならない。
 だが何かあっただろうか。さっき見た時、冷蔵庫にはまともな食材が残っていなかった。
 どこかに食べに行くとしても、その時間になってしまうと、もう二十四時間営業のファミリーレストランくらいしか開いていないだろう。
 別にファミレスが嫌いなわけではないが、ここから一番近いチェーン店は、なぜか不味い。寝起きに食べるような代物ではない。
 だったらコンビニ。
 それも嫌だ。
 深夜のコンビニで余っているものなど、せいぜいおにぎりがいいところだ。
 そもそもあの店の店員は無礼で嫌いだ。
 いろいろと考えたが、露伴の好みに合う結論は出なかった。
「……こういうことになるから、寝た方がいいんだ」
 考えてどうにかなることなら、いくらでも考えてやる。
 だがこういった問題は、時間を取られるだけで、何の解決にもならない。
 それでもなぜか考え込んでしまう。
 眠っていないからだ。
 だからこういうくだらないことに時間を割いてしまうんだ。


 ベッドに潜り込んで数十分。
 露伴はゆっくりと瞼を押し上げる。
 部屋を暗くしたとはいえ、この季節の六時過ぎはまだ陽の落ちる時間ではない。外を行き交う人々の足音や話し声までしっかりと聞こえてしまう。
 寝てないんだから、どんなに五月蠅くても眠れるものだと思うんだが……。
 この程度の騒がしさで眠れないなどということは有り得ない。
 杜王町に来るまでは、あのマンションでも毎晩眠りにつけたのだ。この静かな田舎町で、眠れないはずがない。
「……不眠症なのは僕じゃないぞ。康一くんだ」
 いや、もう治ったと言っていたから、厳密には違う。
 そんなことを考え、ふと自分が口にした単語が引っ掛かった。
 不眠症?
 これが?
 この露伴が、不眠症だと?
 自分で言っておきながら、どんどん気分が悪くなる。
 そんなつまらん病気にだけはならないぞ。絶対にだ。
 第一、眠れなくなる原因がない。
 無い、とは言い切れないが、少なくともあれは違う。仕事のことでジレンマに陥るのはいつもだ。毎回毎回、同じ苦しみを味わっている。それでもいつもは眠れる。
 だからこれは関係ない。
 だったら?
 他に何かあったか?
 別に何もない。
 いつもと同じだ。何も変わったことは起こっていない。
「理由もないのに不眠症になったなんて情けないぞ……とんでもない醜態だ」
 康一のような、もっともらしい理由がつけられれば、まだましだったのに。
 いっそこれが敵のスタンド攻撃だったら良かった。それならば原因など単純明快。解決方法も分かりきっている。
 しかし残念ながら、これはそういった類のものではない。
 おかしい。
 昨夜は結局、一時間しか眠っていない。
 その前も、いろいろとあって二時間程度。その前も、三時間だ。その前の日は……。
 遡ってみると、この一週間、合計してもたったの八時間しか眠っていない。
 改めて数えてみると驚きだが、それっぽっちでも人間は割と平気なものらしい。
 そして露伴はまた溜め息をつく。
 こんなことばかり考えているから眠れないんだ。


 枕の形が悪いのか?
 それともこのシーツの肌触りがおかしいのか?
 閉め切っているつもりだったが、どこか窓が開いていて、だから外の音が気になるんじゃないのか。
 身体が一、二時間の睡眠に慣らされてしまったから、だから眠くならないのか。


 納得のいく説明ができないまま、露伴は眠れぬ理由について模索し続ける。
 時計はいつもと同じく時を刻み、ついにベッドに入って一時間が経過した。


 同じ頃。
 露伴の家の前を再び通りかかった康一は、なぜか早い時間から真っ暗な家を見て首を傾げた。
「さっきまで居たのに……」
 露伴のことだから、突然思い立って旅行に行ったのかもしれない。またいつもの謎の行動力で、スケッチブックを持って町を彷徨っているのかもしれない。
 どちらにせよ、露伴のことだから心配はいらないだろう。
 放っておいてもそのうち戻って来る。
 康一は一瞬留めてしまった足を再び前に向け、家路を急ぐ。
 夕食の時間が迫っている。足は自然にどんどん速まり、最後には全力疾走になった。

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