午後四時二十分。
 筆が乗っていたため、午前中からずっと机に向かい続けた露伴が、遅すぎる昼食を終えた頃。
 誰かが家のインターホンを鳴らした。
 露伴は普通に玄関に向かう。
 誰か知らないが、運が良い。
 これが一時間前だったなら、露伴は迷わず居留守を使っていたところだ。今は仕事も一段落ついて、機嫌も良い。


 その幸運な人物は康一だった。
 最初その顔を見た時、露伴は何の用事かと不審に思った。
 が。
 すぐに思い出す。
 そういえば昨日、その気があるなら家に来いと言ってしまったのだった。
 ということは。
 記憶を消して欲しいということなのだろうか。
 絶対に来ないと確信していた露伴は、そんなことはすっかり失念していたのだが、まさか来るとは。
「何か用かね?」
 わざと突き放した態度で、露伴は康一を見下ろした。
 ドアは開けたが、中に入れるかどうかは康一の返答次第だ。
 そんな露伴の意地の悪い視線を感じているのかどうか、康一はいつもと変わらぬ真摯な目で露伴に頭を下げた。
「昨日はすみませんでした!」
「昨日? というと?」
 気づいていない振りを続けてみる。
「あの、僕……どうかしてたんです……でもお陰で、昨夜の夢は怖くありませんでした。本当、情けないですよね僕……」
 わざわざそんなことを言うために来たのか。
 露伴は半ば呆れつつ、しかし顔には出さずに黙って康一の話を聞き続けた。
 こういう場合、普通は何も連絡もせず、ただ来ないというだけでその意志は伝わるものだ。それをご丁寧に詫びと礼を言いに来るとは。
 妙なところで礼儀正しいというか融通が利かないというか。
 だから康一は面白い。


 露伴を楽しませてくれる存在は貴重だ。
 今回は特別に大目に見よう。
 本来なら、そんな無駄な行為は興ざめでしかないのだが、これは例外として認めた。
 ので、露伴は康一を招き入れる。
「丁度仕事も終わったところだ。飲み物くらいは出すよ」
「ありがとうございます!」
 わざとらしい遠慮をしないところもまたいい。
 そういえば。
 康一をまともにもてなすのはこれが初めてだった。前回はただそういうことにしておいただけで、本当は何も出していなかったのだから。
 露伴は応接間に康一を案内し、自分はキッチンに向かった。


 数十分後。
 露伴手製の菓子とコーヒーで満腹になった康一の口は、常日頃の面白みに欠ける話題を次々と吐き出していた。
 露伴は真剣に聞いているふりだけをし、時折相槌を打つ。
 聞く必要はなかった。
 家族のこと、学校のこと、友人のこと。
 康一の身の回りで起こったことの殆どは知っていた。
 彼はもう忘れてしまったのだろうか。
 露伴が一度、康一のページを隅から隅まで読み尽くしたことを。
 どうせ聞くのなら、露伴が読んだ後に蓄積された最新の記憶の中の話にしてもらいたいものだ。
 そういう点で、露伴に遠慮はない。
「ところで、昨夜の夢は何を見たんだね?」
 この晴れやかな笑顔を見る限りでは、辻彩は登場しなかったのだろうが。
 突然そんな話題を振られ、康一は少しばかり身構えたようだった。
 何か人に言えないような、まずい内容だったのか?
 まさか山岸由花子と何か不埒な行為をする夢ではないだろうな?
 もしそんな夢だったら、聞くに耐えない。
 一応、そこだけは注意しておくべきかもしれない。そう思い先手を打とうとしたが、露伴が口を開くよりも数瞬早く、康一が語り出してしまう。
「ちょっと恥ずかしいんですけど……鬼ごっこでした」
「……?」
 彼は一度、日本語の文法や話し方を学び直すべきかもしれない。
 さっぱり意味がわからない。
「変でしょう、そんなの。仗助くんや億泰くん、由花子さんも間田さんもいて、もちろん承太郎さんも露伴先生もいました。皆で、杜王町の中で鬼ごっこをするんです」
「……ふぅん」
 思ったよりもつまらなそうな話だったので、露伴は足を組み替え、それだけ答えた。
「皆いたんです。でも……死んじゃった人達はいませんでした。億泰くんのお兄さん、知ってますよね? あの人もいなかったし、みんな、いなかったんです」
 それがどういうことか、康一はわかっているのだろうか。
 露伴はそっと康一の表情を盗み見た。
 ああ、この顔は。夢の内容を、しっかりと理解した人間がする顔だ。
 過去を過去として認めた人間の顔だった。
「楽しかったんです。いつか……全部終わったら、あんな風に皆で何かできたらいいですね」
「……だとしても、町をエリアに鬼ごっこはしないと思うが」
 そこだけは強調しておきたい。
「そうですか? 子供に戻ったみたいで、楽しいと思いますよ、そういうのも」
「生憎僕は、子供の時分にもそんな遊びをしたことがないんでね」
 こういうことを言うと、「この人本当に友達がいないんだな」と思われるだけなのだが、露伴はあまり気にしていない。
 それよりも問題は、康一が素直すぎることだったかもしれない。
 露伴のその言葉を聞いた康一の目が一気に輝く。
「だったら是非やりましょうよ! 露伴先生も一度はやっておくべきですよ!」
 どうしてそういうことが言えてしまえるのだろう。
 これも彼の美徳なのだろうが。
 どう断ろうかと思案したものの、当たり障りのない台詞しか思い浮かばなかった。
「……仮に僕がその気になっても、他の連中が嫌がるだろう。承太郎は絶対に参加しないと思うぞ」
「大丈夫です! だって、それくらいの夢がないと、寂しいじゃないですか!」
 何と答えればいいのだろう。
 こんな幼さの残る高校生の口から、そんな刹那的な未来が暗示されるとは。
 こういう時、どう言えばいいのか、露伴でも知っている。
 大丈夫。もう誰も死なない。皆で笑って過ごせる日が来る。
 そう言えばいい。
 多分、康一が望んでいるのはそういう類の言葉だ。
 しかし。
 この岸辺露伴に、そんな使い古した台詞を吐けと?
 絶対に言わない。言いたくない。
「参加者が集まるようなら、僕も考えるよ。日取りが決まったら教えてくれ」
 いつのことになるのか。どんな状況になったらそれが叶うのか。
 露伴は敢えて聞かない。
「はい、任せてください!」
 康一の晴れやかな笑顔を見た瞬間、露伴も一つの錯覚を覚える。
 もう誰も死なず、どんな犠牲も出さない。そんな都合の良い未来が訪れてくれるのではないか。そんな錯覚を。

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