駅前を通りかかった時、そこに康一の姿を認めた。
露伴はカフェ・ドゥ・マゴに向かって歩いており、そこの前だということはあまり意識していなかった。
居並ぶビルの前。
「康一くん?」
「あ……露伴先生……」
近付くまで、露伴に全く気づかなかった。
ただのビルだ。何をそんなに真剣な面持ちで見つめていたのか。
露伴もビルの正面に立ち、康一が見ていたであろうものを見た。
「……エステ」
閉ざされた扉は、営業していた時と何も変わらない。
主の消えたこの店は、もう閉めるしかないだろう。
今現在、彼女は行方不明ということになっている。
家族や親戚がいるのか、今承太郎が手を回して調査しているという。もし見つからなければ、自分達で葬儀を行うつもりで。
「康一くん……」
確か康一は、現場にいたはずだ。
彼女が爆破される瞬間に立ち会っていたと聞いた。
まだ高校一年生の彼が、そんな場面を見てどう思ったのか、露伴にはわからない。
わからないが、おそらく何らかのショックを受けたことは間違いないと思う。
まずい所に来てしまった。
露伴は小さく舌打ちした。
傷心の人間を慰める、というのは露伴の役回りではない。正直、苦手だ。何しろ、生まれてこのかた、まだ一度もやったことがないのだから。
どうしたものかと思っていると、康一の方から話しかけて来た。
シンデレラの扉を見続けたまま。
「先生……夢に見ちゃうんです」
人が死ぬ現場を直視してしまったのだから、瞼に焼き付いても仕方がないだろう。
それは露伴にどうこうできる問題ではない。
「彩さんが……消えちゃうところ、何度も見るんです」
僕ならそんな希有な経験は漫画に役立てるがな。
そう思ったが、さすがにそんな不謹慎なことを口に出す程、露伴も愚かではない。
「最後の彩さんの顔……彩さんの声も、はっきり思い出せて……」
同じようにその場にいた仗助や億泰は平気なのだろうか。
あの二人は神経が太いから問題ないんだろうな。
思っていた以上に康一が繊細だったことに、露伴は驚く。
いや、悪夢も見ない奴らの方がおかしいのかもしれないな。
それはどうでもいいが。
問題は康一か。
「それで? 君はどうしたいんだ?」
忘れたいのか。忘れたくないのか。
口では忘れたそうなことを言っているが、正義感に溢れる康一のことだ。その瞬間のことを胸に抱いたまま吉良を追う心づもりかもしれない。
「怖いです……本当は、早く忘れたいんです」
見れば、康一の目は本当に何かに脅える小動物のそれに近かった。
からかうつもりなどない。
ただ、試したかった。
康一が本当に露伴が思っているような人間かどうか。
今ここで試せば、康一が将来どの程度の成長を遂げるのか、大凡の見当はつけられる。
もし露伴の定める基準に達しない時は。
その時は見限ろう。
露伴の人生という作品に関わらせるに値しないと判断したなら、その時は。
「忘れさせてやってもいいが?」
露伴の言葉があまりにも軽かったので、康一は一瞬何を言われているのかわからなかった。
またからかわれているのかと思った。
「え……?」
「だから、忘れたいなら、忘れさせてやると言っているんだ」
そんなことができるものか。
今だって、頭の奥で何度も同じ場面が繰り返し再生されているこの状況。忘れられないからこんなに苦しいのに。
「露伴先生、僕、真剣に悩んでるんですよ」
「僕だって冗談を言ってるわけじゃないぜ。簡単だろう? 僕が君の記憶から、その部分の記述を削除すればいいんだ」
「あ……!」
今の今まで、そんなこと思いつきもしなかった。
そうだった。
この人には、それができるんだ。
露伴に頼めば、きっとすぐに。五分もかからずに、あの瞬間の辻彩の顔はこの頭の中から消える。
確かに簡単だ。
露伴なら、簡単にできる。
「お……お願いします! 先生! 消してください!」
思い詰めた康一の顔をどう判断したか、露伴は黙って見下ろしたままだったが、すぐに腕を組み直す。
「忘れたら、君は楽になるわけかい?」
「はい!」
「君が楽になるのは君の自由だが、今度は君、そんなへなちょこな自分が嫌になるんじゃないのかね?」
「え……?」
消してくれる、と言ったのは露伴だ。
人が頼むと、急に撤回する。
露伴はそういう男だとわかっていたが、今は何か特別な意味がありそうだった。何か含みのある、その言い方。
「僕は今まで君を見て来て、多少なりとも君って奴のことを知ってるつもりだ。君は、自分さえ良ければそれでいいって考え方、嫌いだと思ったんだがね」
「………」
我が儘で自己中心的な人だったので、失念していた。
こんな人ではあっても、世間から天才漫画家と呼ばれている人物だ。その観察眼が人並み以下のはずがない。優れた洞察力を備え、誰よりも良く人間を見抜く。そういう人だった。
でも露伴は買い被り過ぎだ。
「僕……そんなに立派な奴じゃないですよ……」
褒められて悪い気はしなかったが、しかし褒めすぎだ。
露伴は何も言わず、康一の足許を指差した。
「……?」
何も、ない。
「何が見える?」
「……いえ、何も」
ただ、普通の舗装された道路があるだけだ。
小石一つ、ゴミ一つ落ちていない。
「違うね。君の影があるだろう」
確かに、露伴が差していたのは、康一の影だった。
「昔話でこんなのがあったな。影が追いかけて来るから、必死で逃げるって」
何が言いたいのか、康一にはさっぱりわからない。
「君はさっき、夢が怖いと言ったが、何が怖いんだ? 辻彩の死に顔か? 吉良吉影の能力か?」
問われて、康一は必死にかぶりを振った。
死に顔が怖かったわけではない。吉良が驚異だったわけでもない。
「君は今、自分の影が後ろからぴったりついて来て怖いから、走って逃げ帰ろうとしてるんじゃないのかね?」
「ろ、露伴先生……?」
「よく考えるんだな。明日まで時間をやる。明日になってもまだ、あの日のことを忘れたいっていうんだったら、僕の所に来るといい。望み通り、君の記憶を消してやるよ」
言い終わるか終わらないか、露伴の足はもう駅の方角に向けられていた。
「露伴先生……?」
その後ろ姿はいつも通り、スケッチブックを大事に抱えたままカフェへと消えて行った。
なぜかはわからなかったが、康一は思わずその背中に向かって頭を下げた。
張り上げれば届く距離だった。
けれど康一は声には出さず、ただ頭を下げた。
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