後から聞くと、それは靴屋の爆発の瞬間だった。


 その三十分前、露伴は引き寄せられるように、鈴美のいる小道に立っていた。
 相変わらず記憶は曖昧なまま、それ以上蘇る兆候はなかった。
 時折頭に浮かぶあの女性はきっと、鈴美の顔をしているのだと思う。
 そこまでわかっていて、どうして肝心の、彼女の表情は浮かばないのだろう。
 虹村形兆に射抜かれて早数ヶ月。この能力にも随分慣れた。
 そういえば、知らずに読んだ鈴美の記憶に、露伴の記述がなかった。康一に邪魔されたから途中までしか読めていなかったが、あの先には露伴のこともあっただろうに。
 今からでも、読もうと思えば読めた。
 しかし、どうしてもそうする気にはなれない。
 自分のことは、あまり客観的に知りたくない気がする。
 なぜ記憶が失われているのか、その理由は十分過ぎるほどわかったというのに、記憶そのものは全く戻らない。
 確かに、それは記憶を失う程の衝撃だったろう。
 まだ四歳だ。
 大好きなお姉ちゃんと、その家族が惨殺された現場にいたのだから。
 それに。
 もしかしたら、と思うことがある。
 もし、そこに四歳児が居なかったなら。鈴美が一人きりだったなら。
 うまく逃げ出すことも、できたかもしれない。
 もしその晩、露伴が居なければ。
 露伴を逃がすなどという手間さえかからなければ。
 鈴美は今も生きていて、どこかで平凡な幸福を掴んでいたかもしれない。
 四歳だった露伴がそこまで自分を責めたかどうかはわからない。しかし、責める責めないは別にしても、現実問題としてその可能性は否定できそうにない。
 鈴美や杉本家のことを全て忘れたとしても、それは仕方のないことだったかもしれない。
 だが今はもう違う。
 今はもう、自分は二十歳になった。
 それでも露伴は、何一つ思い出せていない。


 二度目になる、この小道。
 ポストの角を曲がった所に、鈴美とアーノルドはいた。
「露伴ちゃん」
 彼女の時間は止まっている。
 十五年前も、きっとこんな笑顔を向けてくれていたのだろう。
 別に何か用事があったわけでもないのに来てしまった。
 露伴は一瞬言葉に詰まる。
 理由もないのに来てしまう。そんなのは自分らしくない。そんな感傷的な自分だとは思われたくない。
 けれど上手い言い訳が浮かばない。
「遊びに来てくれたの?」
 まさにその通りなのだが。ここでそれを肯定するわけにはいかない。
「僕がそんな暇人だと思ってるのかい? 取材だよ、取材」
 咄嗟に適当な嘘をつく。
 ばれているだろうか。
 小馬鹿にしたような笑い声を無理に上げ、露伴は鈴美をそっと盗み見る。
「ここで取材?」
 大丈夫。
 見抜かれてはいない。
「ああそうさ。ここは町内全部が幽霊みたいなもんなんだろ? 昔の杜王町の面影を知りたかったら、ここに来るのが一番じゃないか」
 一つ思いつくと、後はどんどん嘘が続く。
 ここまででまかせを並べ、今更引っ込みはつかない。露伴はカメラを持ち上げた。
「ところでここで写真を撮ったら、ちゃんとこの家とかも写るのかい?」
「さあ。撮ったことないからわからないわ。試してみればわかるんじゃない?」
「じゃあそうさせてもらう」
 露伴はすぐに鈴美に背を向け、別に何を撮りたいわけでもないというのに、荒れ果てた空き家の一つをファインダーに収める。
 カメラを持って来ていて良かった。
 これで少しは間が持たせられる。


 全く興味のない家々を収め、露伴はできるだけ鈴美と目を合わせないように数十分を過ごす。
 ここに着いてから、三十分は経っただろうか。
「あ……」
 鈴美が小さく何かを呟いた。
「え?」
 振り返りかけた時、露伴の耳にもそれは届いた。
 ドン……ッ。
 何か鈍い衝撃音。どこから聞こえて来るのかわからない、近くのようでもあり遠くのようでもある音。
「……今のは?」
 周囲を見回したが、この小道の中には変化はない。
「あっちよ、露伴ちゃん」
 鈴美は上空を指差した。
 つられて見上げた露伴の目にも、それははっきりと映る。
 煙。
 何か狼煙でも上げられているかのように、一筋立ち上る細い煙。
「あれは……?」
 どこから上っているのか、さっぱり距離が掴めない。
 この小道は、杜王町の中でありながら杜王町そのものの地形に組み込まれているわけではない。ここから見える景色が、実際の街並みとは限らない。
「……どこかで、あいつが誰かを殺したのよ」
 なぜわかる?
 そう問いたかった。
 が。
 露伴は寸前でそれを飲み込んだ。
 以前にも似たようなことを聞いたことがあったので。
 死んでいく人間の魂がこの空を通過する。それが例の殺人鬼にやられたということはわかっても、なぜわかるのかは鈴美にも説明できない、と。
 多分、これも同じだろうと悟ったので、露伴は聞くのをやめた。
 鈴美には、わかるのだ。
 ならばそれはそれで納得するしかない。


 直後、鈴美は空を見上げた。真上を。
 露伴も彼女の視線の先を辿ったが、そこにはいつも通りの青空があるだけ。
 何か見えるのか?
 これも、露伴は言葉にできない。
 鈴美の頬を伝う涙に気づいてしまったので。
 露伴には見えなかったが。
 きっと鈴美には見えたのだろう。
 死んでしまった誰かの姿が。


 煙はしばらくの間消えなかった。
 あれが何なのか、露伴にはわからなかった。
「あれは何なんだ?」
 つい言葉を漏らしてしまう。
「わからない。初めて見たから」
 鈴美にもわからないことがあるのか。
 露伴はまた、どこから上っているのかわからない煙を見つめた。
 その細い煙は、なぜか真っ白で、煙とは思えない程鮮明な筋だった。
 町に建てられた、空まで続く一本の柱のような存在感。
「露伴ちゃん」
「何だ?」
 煙から目を離さず、露伴は答えた。
 鈴美がこちらを見ていることには気づいていたが、絶対にそちらを見るつもりはなかった。
「気をつけてね」
「ああ」
 いつもの露伴なら、ここで何か「どうしてこの僕が?」といった軽口を叩くのだろうが、今はそんな気分にはなれなかった。
 あの煙を見ているせいだ。
 いつの間にか擦り寄って来たアーノルドが、露伴の指先をそっと舐めた。


 後から聞くと、煙が見えていた数分は、吉良吉影という男と承太郎達が戦っている間の時間に相当した。

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