自分の何が気に入られたのか知る術はなかったが、ただ黙って座っているだけで、単行本全巻にサインをしてくれるというのだ。不満などない。
 本当はただ、老人のしがない余生の楽しみだ、としみじみ説得されたので、仕方なくサインを貰いに来ただけだった。
 この町にいる殺人鬼のスタンド使いの捜索もしなければならないのだから、そんな暇はないと断ろうかと思った。
 ところが、先日町中のスタンド使いが一堂に会した時から、神経質そうな風貌の青年が有名な漫画家だと教えられたジョセフ・ジョースターは、早くも何か感慨深げに彼を見ていたようだ。
 いい歳をして漫画が大好きだというこの老人の趣味には、いつも「いい加減にしろ、じじい」と言いたいのを我慢して来たが、今回は本当に口に出た。
 最近少し呆けていたはずだった。
 それがこの町に来てから何故か急に元気になり、昔と変わらぬ達者な口でうまく承太郎を説得し、成り行きでこの家を訪ねる羽目にまでなった。
 忙しいのだからすぐに帰るつもりで、承太郎は中に入った。
 ところが、出された紅茶が問題だった。
 この町にはあまり美味しい紅茶を出す店がない。あっても、常に混んでいて落ち着けない。
 それがこの岸辺露伴の淹れた紅茶は、承太郎の嗜好にぴったりだった。
 余計な物音一つ聞こえない静かな応接間と、品の良いインテリアの数々。
 なぜ承太郎が、延々一時間もここで紅茶を飲み続けていたのかを知ったら、おそらく露伴は怒り狂うだろう。
 多分、「うちは喫茶店じゃない!」とか何とか言われるに違いない。
 ついつい長居をしてしまったが、とにかくサインを貰わなければ帰れない。話を切り出すと、交換条件を持ち出された。
 サインくらいけちけちせずに描けばいいだろうに。
 それともサインと引き換えというのは口実で、ただ単にモデルが欲しかっただけなのか。
 とにかく、紅茶四杯に自家製のクッキーまでご馳走になって、尚かつタダでサインまでしてくれ、というのはさすがに失礼かと思い、モデル話も受けたのだが。


 先程から、露伴の視線が違う所を見ているような気がする。
 あまりモデルになった経験はないのでよくわからないが、普通は全身像を捉えるはずだから、もう少し視線は上の方にあってしかるべき。
 それがなぜか、露伴の視線はある一点に留まり、もう十分以上そこに釘付けだ。
 しかも、そこは承太郎の足許ではないのか。
 確かに最初は、足を描かせてほしいと言われた。
 しかしその後、細かくポーズまで指定されたので、おそらく全身を描いているのだろうと思っていたが。
 それでもやはり足しか描いていない。
 足だけで何枚描くつもりなのかわからないが、スケッチブックは何度も捲られ、そろそろ十枚近くなる。
 とんでもなく早い腕の動きから察するに、一枚一枚は相当細部まで描かれているのだろうが、しかし同じポーズで何枚も描く理由がわからない。
 漫画のことをよく知らない承太郎には、誰もがそうするものなのか、露伴だけが特殊なのかの判別ができない。下手に聞いて、それが初歩的な質問だったりしたら、露伴に対しひどく無礼を働くことになる。
 溜め息一つ。承太郎はいつになったら気が済むのかわからない露伴を横目でちらりと確認する。
 まだのようだ。


 もう一つ、不審なことがある。
 承太郎の右手にある窓だ。
 気づいていない振りを装っていたが、しっかりとそこは視界に収めている。
 仗助と億泰が窓に張りついて、もう十分近く中の様子を窺っている。
 承太郎がここに来た直後から、二人分の頭が庭に見え隠れしていたのは知っていた。しかし不審者でないことはわかっているし、敵でも泥棒でもないので放っておいたのだ。
 三十分ほど前に、仗助の方だけ姿を消した。億泰だけ残して帰ったのかと思っていたら、すぐにまた康一を連れて戻って来た。
 客観的に見て、確かに露伴と二人で差し向かいで茶を啜っている姿は珍しい光景だったかもしれない。
 だが、彼等がいつまでも覗きを続けている理由が、単に面白そうだからなのか、万が一の事態を想定しての備えなのかはわからない。
 肝心の家主は、自分の作業に没頭中のため、庭に入り込んでいる高校生達には全く気づいていないようだ。あえて言うほどのことでもないため、承太郎は露伴には何も告げない。
 それにしても。
 自分はただ、祖父の我が儘でサインを貰いたくてここに来ただけだ。
 それをこの連中は。
 何を群がっているのか。
 少しずつ、承太郎は自分の存在が、夜間虫を集める為に灯される誘蛾灯のように思われて来た。
 この一心不乱な漫画家。
 そして外から凝視する高校生達。
 全く、平和な町だ。
 危険な敵が徘徊する町だというのに、この緊張感の無さ。
 平和な連中だ。
 けれど承太郎はそれが不満なわけではなかった。
 むしろ、口元は知らず緩む。
 少なくとも、ここで紅茶を飲んで過ごしたこの一時間、承太郎も本当に休息を楽しめた。
 露伴が満足し、サインを貰い。そうしたらまた、ボタン一つ持って、捜索に向かおう。ホテルに帰って眠らなければならない時間になるまで、ずっと。


「……違うな。やっぱりあれが必要だ」
 突然、それまで一言も発しなかった露伴が一人で何かを言い始める。
「……?」
 芸術家というのは気難しい生き物だ。何か煮詰まっている時はそっとしておくに限る。
 承太郎はそれでもまだ、同じポーズで待つ。
 と。
「そうだ! 先週、取り寄せたばかりのがあったぞ!」
 何か名案が浮かんだらしい。
 心底楽しそうに、露伴はペンを床に叩き付けた。
「ちょっと待っていてくれ、今準備する!」
 一人で納得されても困る。
 露伴はスケッチブックを投げ出し、部屋を出て行った。
 何かわからないが。
 つまり、まだ終わらない、ということか。
 一人取り残された部屋で、承太郎は小さく溜め息をつく。


 すぐに戻った露伴は、手に高級グラスを幾つも抱えており、それを躊躇いもせずに一気に床に叩き付け、砕いた。
 破片がカーペットに吸い込まれて行く。
 理解できないが、芸術家のやることだ。
 きっと何か意味があるのだろう。
 承太郎はあまり深く考えず、露伴がまたスケッチブックを手に取るのを黙って見つめた。

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