窓から差し込む陽が眩しい。
 ゆっくりと首を巡らせ、さりげなく見遣った壁の時計は、四時を指していた。
 承太郎と差し向かいで茶を飲み始めて、早一時間。
 その間、変わらずのんびりとした調子でとりとめのない会話を続けて来た。
 露伴はそれを振り返り、そっと目を閉じた。
 よく我慢したと思う。
 我ながら、よく耐えたと思う。
 露伴はさほど気の長い方ではない。普段ならとっくに頭に血が上って、相手を追い出しているはずだ。
 本当に、よく一時間も持ちこたえた。


 そろそろか?
 露伴は三杯目の紅茶を飲み終えた承太郎が、ゆっくりとカップを下ろすのを見守る。
 テーブルに乗せられた手製のクッキーはまだ半分以上残っている。
 変に律儀な男なので、もしかしたら全部食べるつもりかもしれない。
 となると、もう一、二杯は飲むのだろうか。
 最初の二杯と、今の一杯は違う葉で出した。それに気づいてまた「この香りもいい」と言うものだから、また無駄な説明をしてしまったのだが、今度はどうするか。
 飲み物だけは不自由していないこのキッチンでは、紅茶は五種、コーヒーは四種まで対応できる備えがある。勿論それ以外の物もあるが。
 別に露伴は承太郎をもてなすために招き入れたのではない。
 何か用事があって来たのだろうからと思って家に入れた。
 その用件を聞くまでは、露伴もどうすることもできずにいたのだが、いったいいつになったらまともな話が始まるのか、見当もつかない。
 だいたい、他人の家に上がり込んでいながら、どうして帽子を脱がないんだ?
 実は最初からそれが一番気になっていたのだが、それを問い質していいものかどうかわからず、ただじっと彼の頭に視線を注いで一時間が経過。
 見られていることに気づいているのかいないのか、承太郎は全く頓着せず、寛いでいる。
「それで、僕に用件っていうのは?」
 この言葉も、何度目になるだろう。
 もう四回は言ったと思う。いや、正確には五回目だ、確か。
 承太郎が何か答えるのを待っていると、その右手がゆっくりと動き、ティーカップが少しだけ露伴の方にずれた。
「悪いが、もう一杯貰ってもいいか?」
「どうぞ」
 露伴はカップを受け取り、再びキッチンへ向かう。


 もう夏になろうというこの時期、ロングコートという出で立ちだけでも気になるところに加え、熱い飲み物を平気で四杯飲み続けるあの男は何を考えているのだろう。
 キッチンに立ち上る蒸気だけでうんざりしていた露伴は、汗一つかかない承太郎に感心する。
 高校時代、学生服を着込んでエジプトまで行った、という噂は本当なのかもしれない。
 先日遊びに来た康一が、仗助から聞いたという話を露伴に教えてくれたのだが、海外旅行にそんな格好で行く人間はあまり見たことがないのでにわかには信じがたかった。
 この男なら、それくらいやりかねないかもしれないな。
 夏になってもコートを手放さない辺り、仗助のつまらない作り話ではなかったのかもしれないと思い始める。
 まずい。
 また気になることが増えた。
 これ以上何か気にすると、もう抑えられない。
 すぐにでも彼の記憶を読みたくなってしまう。
 だが、欲望のままに事を急いて、後から大変なことになっても困る。確実に、露伴に読まれた、という事実を消し去るためにも、ここは慎重にも慎重を重ねて実行しなければならないというのに。
 あの仗助と血縁関係にある以上、下手をするとまた大怪我で休載だ。


 トレイ片手に露伴が応接室の扉を開くと、承太郎と目が合った。
 当然だ。真正面にいるんだから。
 承太郎は、露伴が選んだ革張りのソファにやけによく似合う。本当はこういう人物に座ってもらうための物なのだろうが、露伴は用途がないのでただ飾っているだけだ。客が少ないのだから仕方がない。
 軽く組んだ足。長すぎて持て余している。だがその微妙な筋肉の張り具合もまた、椅子の雰囲気にぴったりの身体と言える。
 特に、接地している左足の足首の力の入り具合。更に、右足の膝。いい筋だ。絵になる。
 片足ずつ、パーツとして見ても問題ないが、両足揃ってのバランスがまた良い。
 こういうのは使える。
 今すぐスケッチブックを開きたい。
 描き写したくてたまらない。
 露伴のそんな葛藤に気づかぬ承太郎は、微かに片眉を上げて呟く。
「さっきの残りで良かったんだが。わざわざ新しい葉を出させると、こちらも気が引ける」
 扉の開け閉めで部屋の空気が僅かに動いたが、それだけで露伴の手にあるカップの中身の香りまでわかったのか。
 こういうところが仗助と違うところだな。
「別に。僕が飲みたかったから淹れたまでだ」
「ありがとう」
 露伴からソーサーを受け取る。
 でかい手だ。
「それで?」
 何度目だろう。
 数えたくないが、しっかり覚えている。
 六回目だ。
 一時間で六回だ。
 今度こそ、話してもらう。
 でなければ、このまま夕食時を迎えてしまいかねない。


 四杯目の紅茶を半分空けた。
「一つ頼まれてくれないか?」
「何を?」
 承太郎は、コートのポケットを探る。
 何が出るかと思いきや、よく見知ったデザインがそこにある。
 見慣れた絵。見慣れた構図。見慣れたタイトル。見慣れた装丁。
 露伴の著作、『ピンクダークの少年』最新刊だ。
 まさか。
「ジジイが漫画好きだってのは聞いてると思うが……ろくに漢字も読めないくせに、欲しがりやがる。その上、折角だからサインも入れてほしいと我が儘ぬかすんでな……悪いが、書いてもらえるか?」
 祖父絡みの話題になると、途端に饒舌になった。
 露伴は無言のまま、本を受け取る。
「……他には?」
「いや、一冊でいい。全巻書いてもらうわけにはいかないだろう?」
 そういうことではなく。
「サイン以外に、他に何か用事は?」
「サインだけで十分だ。後で握手したいとか写真撮りたいとか言うかもしれんが……」
 本当に、これだけのために露伴の家まで来たらしい。
 そしてこの様子。決して言いだしにくくて今まで引き延ばしていたわけではない。ただ、けして急いでいなかったというだけなのだ。
 ゆっくりと紅茶を味わって、それから。
 そういうつもりで来ている。
「……僕は別に……一冊だろうが全巻だろうが、労力はあまり変わらないが……」
 今、一つだけわかったことがあるぞ。
 仗助が何かおかしいのは、遺伝なんだ。
 この一族は皆揃って、何か他人と少しずれているんだ。
 サインを入れながら、露伴は一つ、交換条件を提示することを思いついた。
「ところで、サインをする代わりに一つお願いしたいんだが?」
「………?」
「さっきから気になっているんだ、そのポーズ。何枚か描かせてもらいたい。サインの礼として、五分だけ足のモデルをしてくれ」

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