ピンポーン。
それが聞こえた時、露伴は仕事部屋で机に向かっていた。
右手の横には描き上げられたばかりの原稿の束。左手の横には、まだ真っ白なままの紙が残り二枚。
ちょうど最後のコマを描き終えた瞬間だったので、露伴は窓から下を見下ろした。
白い帽子と白いコートの男が立っている。
「……何の用だ?」
面識はある。が、その程度だ。
話などまともにしたこともない。顔を合わせたことだって、数える程しかない。他に誰か一緒かと思い、辺りを見回したが、彼の連れらしい人物は全く見当たらない。
一人で来ているらしい。
しかし露伴は構わず、次のケント紙に手を伸ばした。
後二枚。今はこちらが最優先。
それにだ。
一度手を休め、一階まで行く。玄関で彼に用件を聞く。すぐ終わったとしても、またここまで階段を上って戻って来るまでに要する時間はどう少なく見積もっても五分だ。一枚とはいかなくとも、半分以上は描けそうだ。
だがもし。もし彼の用が、すぐに済むような単純なものではなかったら。
家に入れて、茶の一杯でも出さなければならなくなったら。
それどころか露伴が仕事を中断して外出しなければならなくなったら。
一時間や二時間では済まされない。
ならば当然、先にこれを描いてしまうべきだ。
実際のところ、露伴は再びペンを握った瞬間に、もう外の承太郎のことは綺麗に忘れ去っていた。
だから、最後の二枚を描き終えた後、何気なく見下ろした玄関先でまだ微動だにせず立ち尽くす男の姿を見つけてしまった瞬間は、本気で驚いた。
「……居留守だとでも思っているのか?」
今回は本当に居留守なのだが、もしかしたら仗助辺りが入れ知恵していたのかもしれない。「あいつ、よく居留守使いますよ」とかなんとか。
だとしても、一度だけ鳴らして後はそのままただ立っている、というのはどうだろう?
もし露伴が窓辺に立たなければ、何時間も気づかずに放置するところだった。
しかし気づいてしまったからには仕方がない。
露伴は階段を降り、無言のまま玄関に立った。
これが仗助や億泰だったら、玄関先で二十分待たされたことに対する不平を長々と並べるのだろうが、相手は承太郎だ。
あまり、そういった文句は言わないような気がする。
というより、多少待たせても気にしていないというか、割り切っているというか。
とにかく、露伴は承太郎がその程度のことで怒り狂うようなタイプではないと見抜いていたので、さほど警戒せずに扉を開いた。
案の定、承太郎は普段と変わらぬ表情でそこにいた。
「仕事中申し訳ないが、待たせてもらった」
「立ち話もなんだから、どうぞ」
すぐに出ず、二十分も経ってから姿を見せた露伴。それが仕事中だったからだと察している承太郎の丁寧な会釈に好感を持ち、露伴は中へ招いた。
同じような顔でも、こういった所がどこかの変な髪型の奴とは違うな。
日頃から嫌っているあの高校生と血縁関係にあるかと思うと、それだけで嫌悪の対象になりそうなものだったが、回転の速い彼の頭は気に入った。
珍しく普通に紅茶とクッキーでもてなし、露伴も応接間のソファに腰を下ろす。
「それで? 僕に何か?」
どうもこの男の性格がよくわからない。
ここに来た以上、露伴に何かさせたいと思っているのだろうが。
だが、露伴にできることといえば、他人の記憶を読んで、改ざんしたり消したり、命令することくらいだ。まともな倫理観の持ち主ならば、絶対に露伴の能力を利用したくはないはずだ。
この男はどうなのだろう。
多少のことには目を瞑るのか、場合が場合なのでその程度のことなど問題にならないと思っているのか。
ここに何をしに来たのか、さっぱりわからない。
そして何より問題なのは、露伴の方から一々促さなければ、この男は一言も発しないというこの事実。
無口だ無口だとは聞いていたが、さっきからまだ一言か二言しか話していないぞ。
「……いい香りだ」
五分も経った頃、カップを戻しながら呟いた一言がこれだ。
「………」
どう応えたものか、露伴は少々面食らいながらも、努めて平静に話し出す。
「……以前、ロンドンを旅行中に気に入ってね。いろいろと試したが、僕はこれが一番好きだ」
「なるほど」
また、会話が途切れた。
そろそろ本題に入ってもらいたい。
どうもこの男は変にマイペースで困る。
露伴のことを暇人だと勘違いしているのではないか。確かに今は仕事を終えたばかりで暇なことは暇なのだが、来週の締め切りのことを考えると、そうそうのんびりと構えてもいられないというのが現状だ。早く次のネタを拾って来なければならない。
待てよ。
別に、この男でもいいわけだ。
読ませてもらって、何か面白いことでも見つかれば、それをそのまま使うという手もある。
「趣味の良い家だ」
突然、承太郎の方から話しかけて来た。
当然だ、と思いながらも、露伴は違うことを口にする。
「……それはどうも。この町には理解できる人間が少なくて、あまり受け入れられないようだがね」
「一人で維持するのは大変だろう? 掃除はどうしているんだ?」
やっと会話らしくなってきたな。
露伴は気づかれないように息を吐き、すぐに答える。
「一人で手が回らないような家なら、最初から買わないね。この程度なら、僕一人で十分だ」
「そうか」
「………」
まただ。
一体、何がしたいんだ?
少しずつ、露伴は諦め掛けていた。
このまま、ただのんびりとした午後のティータイムを過ごして終わったとしても、何も不思議ではない。そんな空気すら流れ始めている。
本当に、この男は何をしに来たんだ?
その意図が全く読めない。
いっそこの鷹揚とした男を本にしてしまおうか。それくらいの隙もありそうだ。
しかし、露伴が行動に出ようとすると、まるで見透かしたかのように、ぽつりと何か話しかけて来る。
時折しか開かないその口から出て来るのは、他愛もない事柄ばかり。
ひどく空ろだ。
空蝉を見ている時に感じる、あの気分。
今の状況はそれに酷似している。
……冗談じゃないぞ。なんで僕が家の中で、こんな大男を前にして、蝉の死骸を眺めてる時のような虚しさを感じなきゃいけないんだ?
「……もう一杯いるかい?」
「頂こう」
露伴の前にカップが戻される。
なんだかわからないが、気長に付き合ってみるしかなさそうだ。
待っていれば、そのうちに何かそれらしい話題を持ち出してくれるだろう。
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