露伴の仕事部屋の修復がほぼ完了したその午後、食事は外で摂ることにした。
 まだ町の店全てを把握しているわけではない。
 どこが美味いとか、どこの店員の感じがいいのかも、まだ全て知っているわけではなかったので、露伴は適当に歩き回りながら考えていた。
 気分的には、イタリアンかフレンチなんだが。
 そんな気の利いた店が近くにあるとは思えないが、一応商店街を覗いてみる。
 時代も流行も無視した田舎町。
 二昔前のレストランや喫茶店ばかりが目につく。
 期待はしていなかったが、本当に何もない。
 仕方がないな。
 ここから駅前まで、バスを使って行けるはずだ。
 しかし残念ながら、そのバス停がどこなのかよくわからない。タクシー生活を送っていたせいだ。愛車を出す時も、停留所まで気にして走っていなかったことを、今頃になって後悔する。
 タクシーしかないな。
 周囲を見回すと、随分と都合の良いタイミングで、空車待ちを一台見つける。
 杜王駅前まで、と言ったら乗車拒否するだろうか?
 試しに近付いてみる。
 が。
「……?」
 運転席に、誰もいない。
 エンジンはかけっぱなしだ。
 遠慮しない主義の露伴は、そっと助手席側から手を伸ばした。ドアが開く。
「なんて不用心な奴だ」
 辺りにそれらしき人影はない。運転手が入ってもおかしくない類の店も、近くにはない。
「どこに行ったんだ?」
 まあそのうち戻って来るだろう。
 露伴は後部座席へ回り、堂々と乗り込んで待った。


 次第に苛ついて来た。
 時計を見るともっと腹が立つのはわかっていたので、露伴は敢えて確認しなかった。しかし確実に、もう十五分はここに座っていると思う。
「客が待っているってのに、いつまで待たせるんだ?」
 暇なので、運転席の様子をじっくり眺め、肩から提げたスケッチブックを開いて描き写す。
 十分描き切ってしまうと、また溜め息をつきながら運転手を待つ。
 本当にどこに行ったのか。
 何か気を紛らわせるのに都合の良い物はないだろうか。
 見るとはなしに外の商店街の、面白みのない街並みに目を遣る。
 何十年前からそこにあるのかわからないような、古い建物が軒を連ねている。
 おそらく、露伴が子供の時分より、更に以前からここにあったであろう建物だ。
 年数はどれくらい経っているのだろう。
 三十年は堅いと思われる。
 露伴はその薄汚れた外壁を注視し、自らの記憶からそれと合致する映像を呼び出そうと試みた。
 二、三分、露伴は考えて、そしてやめた。
 思い出せるような物ならば、考えなくとも既視感が先に立つ。
 十中八九、自分の思い出の中に、この風景は存在していないのだ。
 考えるのは無意味だ。
 どれほど時間をかけても、それは絶対に蘇らない。


 以前から、不審に思っていたことがある。
 何故か、この町にいた頃の記憶が殆ど無い。
 幼すぎたのだ、と片付けていたが、実際ここに帰って来てから、もうそんなことでは誤魔化し切れなくなっている。
 アルバムには、この町の写真がない。この町で生まれ、この町で育った露伴の写真は、ほんの数枚しか残っていない。かつての自宅がどんな建物だったのか、その外観の写真もない。両親と露伴、数人の知り合い、その程度だ。
 この町を出た直後辺りから、一気に写真の枚数は増えていた。
 それまで撮っていなかった反動?
 違う。
 故意に、この町の写真を破棄した。
 いつしか露伴は、そんな確信を抱くようになっていた。
 もしかしたら引っ越し先としてこの町を選んだ時にも、どこかにその意識があって、直接この目で町を見、この手で町に触れたいと望んでいたのかもしれなかった。
 失われた記憶と、消された痕跡。
 何かがあった。
 そう思わざるを得ない。
 しかし、この町に移り住んで早数ヶ月。
 未だに露伴は何も見つけていない。
 何の証拠も、この手には入っていない。


「お待たせしちゃいました?」
 呑気な笑顔で車に乗り込んで来た中年の男は、露伴に「いやーすみません」と軽く頭を下げた。
「いや。……駅前まで行きたいんだが」
「はいはい」
 車が動き出してすぐ、運転手は露伴に話しかける。
「いや実はね、お客さん。そこの薬局の横で雀を拾っちゃってね。ちょっと怪我してたもんだから、どうしたもんかと思って……いやあ焦るよね、ああいうのは」
 聞きもしないことをどんどん話し始める。
 こういう手合いは、相槌を打たなくても勝手に喋り続けるので、露伴は黙って外を見続ける。
「全然動かないんだよねー、死んでるのかと思って、ちょっと耳当ててみたら、ちゃんと心臓は動いてるからもう、こりゃ大変だ、ってね」
 雀。
 今、何か引っ掛かった。
 冷たい、小さな鳥の身体。
 耳を近づけて、その鼓動を確かめた。
「……僕が?」
 微かな呟きは、運転手には届かなかったようだ。一人で陽気に話し続けている。
 露伴はもう聞いてなどいなかった。
 掌に乗せた、動かない雀。
 耳に届いた鼓動。
 いつのことだろう。
 そんなことがあっただろうか。
 けれどその光景は知っている。一度、体験している光景だ。いつどこでだったのか、思い出せないが。
 そっと目を閉じ、露伴はその雀の記憶を呼び覚まそうとした。
 雀の鼓動を感じた。
 そして。
 それから。
 あれは誰の家だったのだろう。自宅か? それとも誰か別の?
 家がどんどん近くなる。その家を目指して走っていた。
 家の前には、誰かが屈んでいた。
 露伴と目線を合わせるためではなく、最初から屈んでいた。
 何か、動物を構っていた……?
 その人に向かって、露伴は何か叫んだ。
 いや。
 名を、呼んだ。
 呼びながら駆け寄った。
 顔、名前。そこだけは思い出せない。
 幼い頃、死にかけた雀を拾って、誰かを頼って走っていた。
 この記憶は、いつのものなのだろう。
 あの人は誰なのか。


 吐き出す息が白かった。
 真っ赤になった指先で、雀をそっと包んだ。


 これは、この町での思い出なのだろうか。

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