乱暴に走らせた車は、少々泥の跡が目立った。
「まだ一回しか使っていないんだぞ?」
そのままガレージに戻すというのは何だか嫌だ。
だからといって洗車という気分ではない。
自分で洗い流すのも嫌だが、人に洗わせるためにはそこまで運転して行かなければならない。どちらも面倒だ。
近所の家々を見回し、露伴は思案する。
ここで露伴が車を洗い始めたら。
確実に数人はそれに気づく。ホースを持って、袖を捲り、額に汗して水飛沫と格闘する露伴の姿を、確実に何人かは目撃するだろう。
あまり、そんな姿は見られたくない。
あまりというより絶対に見られたくない。
しかもどこが汚れているのかと言えば、ほんの少しだけ。
あの人は神経質なんだな、と笑われたくない。
ついでに、真っ昼間からそんなことをしている様というのは、どう考えても、車好きな男の趣味の一環のように見えなくもない。
露伴が自分でやるというのは、やはり良くない。
溜め息を吐いた後、結局露伴はそのまま車を戻した。
この程度で一々神経を磨り減らしていても仕方がない。諦めよう。
しばらく空けていた家。
冷蔵庫の中も危険に満ちていた。
まだ五月だったのが幸いだ。しかし、肉や魚の一部はもう捨てるしかない。
商店街のスーパーのパッケージを掴み、露伴はそこに刻まれた日付を一つ一つ確認する。
これは三日前。こちらは四日前。
急な入院だったのだから已むを得ない。
待てよ?
今日は何曜だった?
生ゴミの日は、昨日だったような気がする。
カレンダーとゴミ収集の冊子を見比べ、露伴は眉を寄せる。
まだ数日、この使い物にならない魚を冷蔵庫に収めておかなければならないらしい。
が。
これの使い途が、全く無いというわけではない。
露伴はそっと封を切り、直に魚に触れる。
冷たい。
そして柔らかい。
何とも言えない感触に思わず笑みを浮かべ、露伴は遠慮なくその身の中に指をずぶずぶと埋め込み始める。
しばらく中をかき回した後、抜いた指をそっと舐めてみる。
気持ちの良い味ではないが、これが腐った魚の味か。
子供のように熱中する露伴は気づかなかった。
玄関からいくら呼んでも返事がないので、裏に回って来た客がその一部始終を見ていたことに。
「き……岸辺、さん……?」
突如横から声が掛かっても、露伴は動じず、ゆっくりと視線を巡らせる。
「訪問は玄関からするのが礼儀じゃないのかね?」
普通の人間ならば、まずい所を見られたと慌てる。
この客もそう思っていた。狼狽する露伴を「ちっとも気にしてませんから」と宥めるつもりでいたのだ。
それが。
「君が立っているのは、僕の家の敷地だ。泥棒並に浅ましい行為だな」
「あ……す、すみませんっ……!」
自分が今まで何をしていたのか、どんな場面を見られてしまったのか。
そういったことを綺麗に忘れ去ったかのような態度で、露伴は客を威圧する。
「ところで。誰だね、君は?」
本来ならばまず一番最初にされるべき質問を今頃され、客は一瞬反応が遅れる。
それがまた、露伴の癇に障ったらしい。
「他人の家に来て、名前も名乗らないのか!? 無礼にも程があるぞ!」
「いえっ……そんなつもりじゃ!」
ちょっとの間も認めてくれないのか、この人は。
変な人を訪ねてしまった。
客は俯き、露伴から見えないように舌打ちした。
「それで、何の用だ?」
露伴が苛ついていたのは、別に客の態度が悪いからではない。
自分の能力の不便さが歯痒かったからだ。
こういう時、目が合った瞬間に相手を本にできれば、こんな無駄な問答をする手間が省けるのではないかと。
ついでに。
見ず知らずの人間であるこの男は、露伴がこの男についての知識を全く持っていないと頭から信じている。そこを裏切って、目が合った直後から露伴は既にこの男の情報の全てを得てしまっているのだ、という優越感を抱いてみたい。
本当に融通の利かない能力だ。
露伴がしたいと思ったその時に、好きなだけ自由に使えないとは。
これが自由に使いこなせるなら、どれほど楽だろう。
第一印象で興味を抱いた通りすがりの人間を、その場で余すことなく読み取る。最高だ。
それが現実は。
この客の訪問理由さえ知ることができずにいる。
許せない。半端な能力しか有していない自分が、許し難い。
「早く言いたまえ」
腕を組み、柱に寄りかかったまま、露伴は客を見下ろした。
背広を着込み、趣味の悪いネクタイを締めた三十前後の男。鞄からはみ出しているのは何かの冊子。
セールスか?
見た目から予測できるのはその程度。
露伴が知りたいことは、それよりも更に深い部分。
男の名前、年齢。家庭環境、その意識が何処に向いていて、日頃何を思っているのか。そういった情報が欲しいというのに。
男は手間取りながらも、パンフレットを一部取り出し、露伴に差し出す。
「布団の裏打ちなどはどうされてます? いつもクリーニングに出されてます?」
差し出された紙に、露伴は一応目を通す。手は出さない。
下手な絵が描かれている。布団を持ったエプロンの女が陽気に跳ねている。
文字の配置も気になる。
何故か真ん中に大きく『ふとん』の文字。しかも紫色で。
田舎のセンスってのはこの程度なのか?
感性が毒されそうだから、これ以上見せるな。
そう言う代わりに、露伴は片手でその紙を弾き飛ばした。
「この露伴に、そんなふざけた物はいらん!」
言われた方には、何が“ふざけた物”なのかわかるはずもない。
パンフレットのデザインが悪かったから、とは思わなかったのだろう。
セールスマンは飛ばされたパンフレットを拾い上げ、軽く頭を下げて帰って行く。
「ではまた、日を改めてお伺いさせていただきます」
更に、露伴はその背中に向かって叫ぶ。
「何度来ても同じだ! 僕には無用だ!」
新しいパンフレットを刷るまでは。
そう付け加えれば、まだ彼にはわかり易かっただろうが、露伴は徹底してそこを省略する。勿論、意図的にしていることではなく、怒りの為に言葉が短くなっているだけだが。
すごすごと引き下がったセールスマンは、数メートル歩いたところで立ち止まり、そっと振り返る。
露伴の姿が見えない位置まで来たことを確認した後で、やっと息を吐いた。
「あの人……布団使ってないのかな?」
魚も、食べずに解剖していたし。
世の中には色々な人がいるから、稀にああいった変人にも出会すだろう。
とりあえず、この家はだめだ。
時間を置いて、うっかりまた来てしまったら、今度は刃物が飛んで来るかもしれない。
用心しよう。
男は手帳を取り出し、この家の番地を岸辺という名字と共に書き込むと、横に大きくバツ印をつけた。
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