露伴は、ただの打撲や多少の切り傷だけだろうと思っていた。
 が、後になって事実を知り激怒した。
 骨折が一カ所。他二カ所にひびが入っていた。
 骨の一本や二本折れたと聞いても、露伴はそれほど驚かなかったのだが、右手首の捻挫が完治するまでまだしばらく掛かると知らせた時、それを説明していた医者は殺気を感じて思わず後退りした。
「それで……?」
 押し殺した声が余計に恐ろしい。
 露伴は頼んでもいないのに自ら希望し、退院しても構わない程度に回復していたのだが、まだ病院から出て行こうとしなかった。
 長く居座られて、それで早く治るというわけではない、ということを何度も説いたはずなのだが、一度言い出した露伴は聞き入れない。個室を占領し、食事が不味い部屋が狭い隣が騒がしいと文句をつけ続ける日々を送る。


 自ら言い出したことだったはずなのだが、さすがに長く病院に籠もっていると飽きが来る。
 入院患者はどいつもこいつも安穏としているし、まるで温泉に湯治にでも来ているような気分になる。
 老人は口を開けば若い頃の武勇伝を語り出すし、子供はゲームとテレビアニメに夢中。たまにジャンプを読んでいる人間も見掛けるが、観察していると『ピンクダークの少年』のページをあからさまに飛ばしていた。
 そういえば、描きためた分は、今週までだった。
 来週からはしばらく休載ということになってしまう。
 早く復帰したいというのに、大事な右手がこれではどうにもならない。


「ここ、お化けが出るんだよ」
 露伴が溜め息をついていた横で、子供が二人、無邪気にも怪談話で盛り上がっている。
 何気なく耳に留めてしまった露伴は、ちらりとその二人を見遣る。
 小学生だろう。体育の時間に張り切り過ぎて足でも折ったってとこか。
「オレ、昨日見たもん」
 病院に霊が出る。洒落にならないから止めておけ、と思う。
 第一、聞かされている方の少年は、まだ話が核心に迫る前だというのに早くも脅えている。今夜は眠れなくなるか、悪夢にうなされて悲鳴を上げるかどちらかだ。
「なんかさあ、部屋の前で変な音がして、気になったからちょっと覗いてみたんだ」
 その足で夜中に歩き回るのはさぞかし大変だったろうに。こいつも好奇心で身を滅ぼすタイプだな。
「このくらいの、何か丸いのがスゥーって動いて……こっちに来たんだ!」
「ひっ……!」
「目が猫みたいに光ってて、すっげぇ怖かった。オレンジ色に光ってたんだ」
「そ、それで……?」
「オレびっくりして、慌てて布団被って寝たんだけど、ずっと部屋の前うろうろしてるんだ。なんか、ペタペタって音で。で、そのまま消えた」
 何がどう怖いのか、露伴はよくわからなかったが、相手の少年が青ざめているので、多分怪談としては成功したのだろう。
 つまらん。
 露伴は立ち上がり、病室に戻った。


 夜。
 暑くも寒くもない、いつもと同じ夜。そのはずが、なぜか寝苦しい。
 目が冴えてしまい、露伴は慣れぬ枕の端を弄んで時間を潰す。
 と。
 ペタリ、ペタリ。
 何か妙な足音だった。
 サンダルや革靴の類では、あんな音は出ない。
 は虫類が這い回っている音に近い。
 ただし、かなり大型の物でなければ、これほど響き渡ることはないだろう。
「……何の音だ?」
 ただでさえ眠れないというのに、夜中に変な音を出すとは。この病院は、本当になってないぞ。
 露伴は無視して眠ろうと目を瞑ったが、余計に神経はそこに集中してしまう。
 数分が経った。
 音は依然続いている。
 何をやっているんだ、こんな時間に。
 消灯時間は過ぎていたが、一言何か言ってやらなければ気が済まない。一言、というよりも、相手の顔を見たら怒鳴りつけてしまうような気がした。しかし、最初に迷惑をかけたのは向こうの方なのだから、露伴が恐縮するほどのことではないだろう。
 そうと決まれば。
 露伴はゆっくりと起きあがり、ドアの前に立った。
 そして呼吸を整え、足音が一番この部屋に近付いた瞬間を狙って一気に開け放つ。
 が。
「……いない?」
 馬鹿な。
 確かに、この部屋の前を今通過しようとしていたはずだ。
 絶妙なタイミングで、間違いなく捕らえられたはずだというのに、何もない。
 部屋の外に出、廊下を見回したが、端から端まで見渡しても、人影は全くない。
 それとも、足音だと思っていただけで、何処かから漏れる水音か何かだったのだろうか。古い建物だから、それも有り得る。
 もしそういった現象ならば、諦めて我慢するしかない。
 露伴は仕方なく、部屋に戻ろうと踵を返した。


 ペタリ。
 まただ。
 すぐ真後ろ。今度は間違いない。
 振り返った先には。
「……一体、何の音なんだ?」
 何もない。
 ただの無機質な、当たり前の廊下が続いているだけ。
 妙な音が出るような物など、ここにはない。
 なんだか腑に落ちないが、まあいい。
 しかし、露伴が室内に戻り、扉を閉めようとした時、廊下の天井の一角で、何かが光った。
 閉まりつつある扉の隙間。一瞬だけだが捉えた。
 オレンジ色の双眸。
「猫……?」
 既に閉ざした扉を、迷うことなくまた開け放つ。
 今見えた場所にすぐに注目するが、あるのはただの暗闇だけ。
「馬鹿な……」
 昼間聞いた怪談と同じだ。
 そんな馬鹿な。
 人間の霊が出るのならまだしも、訳の分からない音を出して歩く猫の目だと?
 説明のつかない怪談は納得できない。
 露伴は何度も、猫の目の見えた辺りを凝視し、壁にも触ってみたが、異常はない。あんな風に光るものもなければ、どこかから何かが反射して来たという説も成り立たない。
 しばらく悩んだが、この暗さではそれ以上調べるのは無理だ。
 露伴は部屋に入り、ベッドに転がると、朝が来るのをただじっと待った。


 明るくなった廊下の一角で、天井を調べる若い男性の存在は、少々不気味だった。
 漫画家だと聞かされていた人々は、彼の奇行は見て見ぬふりをするのが一番だと知り、敢えて何も聞かない。
 何を必死に調べているのか、退院するその日まで、彼は納得のいかないという顔をしていたが、さすがにそれ以上病院にいる理由が見つけられなかったのか、しぶしぶ帰って行った。


 その後、露伴の新作のプロットの中に、『オレンジ色に光る猫の目』という存在が付け加えられる。

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