露伴本人は予期していなかったことだったが、医者は入院を勧めた。勧めたというよりも、強制的に入院させられた。
専門家の言うことなのだから、実は思っていた以上の重傷だったのかもしれないと納得し、露伴は仕方なくそれに従った。
どのみち、手が満足に動かない以上、仕事は休まなければならない。そうなってしまうと、家にいようが病院にいようが、あまり変わらない。
それよりも、たまに病院に居てみるのも、何か新しい発見があるかもしれず、何かの際に役立てられるかもしれない。そう判断し、露伴は入院に異議を唱えなかった。
しかし。
病室の前で、露伴はお得意の我が儘を言い出した。
「この僕に、むさ苦しい大部屋に泊まれと言うのかね!」
室内の五人に対しては、大変失礼な物言いだ。
「個室を用意したまえ」
実際、この部屋の前に辿り着くまでの間で、ある程度この若い男の性質を掴みかけていたので、病院側は溜め息をつきながらも露伴の要望通りにする。
この患者は扱いにくい。
何しろ、治療中であっても、ヘアバンドは絶対に外さないし、イヤリングも外そうとしない。額に裂傷があろうが、イヤリングの触れる位置に擦り傷があろうが、耳を貸そうともしない。
自分を助け出そうとする人間に向かって、部屋の掃除が先だと怒鳴りつけたというだけあって、余人には理解できないこだわりだらけの男だ。
考えようによっては、露伴の希望する“病院内でしか得られない体験や情報”には、他の入院患者との接触も含まれるはずなのだが、そこは露伴自身のプライバシー保護の方が優先されるため、個室でなければならないという結論になる。
入院して数時間後。
原稿が届かないことに不審を抱き、自宅を訪ねた担当の青年が果物籠と共に現れる。
近所で話を聞き、駅前で見舞いの果物を買って駆けつけたのだろう。
露伴も、自分に客など他に来るはずがないと知っているので、さほど驚かない。遅かれ早かれこの青年が顔を見せるのは間違いなかった。
「先生、何があったんです?」
「机が壊れて下敷きになっただけだ」
真実を話さないのは、仗助を庇っているからではない。
大事なネタは、使うその時まで温めておく。たとえ編集が相手であっても。
それに、露伴の意図まで全部説明するわけにはいかない。何かの弾みで、どこかからこの思惑が漏れたら、折角こんな怪我をしてまで仲間に加わろうとしている露伴の苦労が水の泡だ。
第一、どう説明すればこの凡庸な男を納得させられるのか。スタンドの解説から始めるのか? 馬鹿馬鹿しい。誰がそんな話を信じるんだ。
適当にあしらって帰した後、露伴は一人きりの病室で、安っぽい枕を叩いて感触を確かめる。
こんな枕で眠れるのだろうか。枕だけじゃない。マットレスの硬さも問題だし、シーツの肌触りも気に食わない。そもそもベッドが狭すぎる。部屋の天井も低いし、窓の大きさも露伴好みではない。
こうやって落ち着いてみると、今頃になって体中が痛み出して来た。
安眠には程遠い環境だ。
もっとも、まだ日の高いこの時間から、夜のことを心配していても仕方がないが。
何しろ、こんな狭苦しい室内に一人で寝ているだけで、他に考えるべきこともないこの状況では、そのくらいしか思いつかない。
気分転換になるかと、窓の外へ視線を移す。
満足に足も動かせないので、窓辺まで立って行くことは不可能だ。このベッドの上から見える範囲だけ。
三階の南向きのこの窓からは、杜王町の街並みも、病院近辺の家々すらも見えない。
ただ空が映るのみ。
気づかなかった。今日は晴れていたのか。
ここ数日、殆ど外へ出ることがなかった。仕事に没頭していたので、窓の外の景色にすら意識が向かなかった。
五月。
結局、今年も桜を見なかった。一人で花見という気分になるはずもないので、つい敬遠してしまいがちだったが、完全に散ってしまった後になって、急に後悔し始める。
漫画家として、少しは世俗的な行事にも参加していなければ作品の深みが無くなる、という自覚は持っている。
もしあの高校生達が露伴を誘って来るようなことがあれば、来年は花見に出向いてもいい。たまになら、そんな下らない行事も我慢できる。
だがそれはまだまだ先のことで、今は彼等との関係を上手く築き上げねばならない時期だ。
これだけ露伴が自分を殺そうとしているのだから、それなりの見返りがあればいいのだが。
窓の外には、雲一つない。
平凡だが、落ち着く青だ。
こういう色は、あまり使ったことがない。
露伴の描くカラーイラストには、こんな青は似合わない。そう思っていたのだが。
似合う似合わないは、露伴が判断すべきことではない。
これから、何かの影響を受けて、露伴の作風も少しずつ変化していくかもしれない。そんな時には、この青が使えるかもしれない。
露伴は手元にスケッチブックがないことと、満足に筆を動かせるだけの力が指先にないことの両面で苛ついた。
我慢だ。
今は我慢しなければ。
この怪我が治れば、どんなことだってできる。
今、上空を通る飛行機の影が見えた。
見えた、といっても、一瞬目の端で何かが動いただけだったので、本当に飛行機だったのかどうかはわからない。
つられて見上げた空には、その軌跡を残す飛行機雲があった。
なんだかとてものどかな光景だ。
折角、入院したのだから、露伴が普段描かない世界でも見つけようか。
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