広瀬康一からページを破り取った瞬間、露伴は久々に満たされた。
こんなに晴れやかな気持ちになったのは何年ぶりだろう。
この町が、実はスタンド使いだらけだという事実には少々不安を感じるが、この小柄な高校生の仲間に、露伴の存在を気づかせない方法は考えてある。
露伴は何の憂いも抱かずに、ここで漫画を描いていられるだろう。
前触れもなく玄関先に現れた、平凡な二人の高校生。顔を見た時は、さほど面白いことは書いていないだろうと思ったが、露伴と波長の合う人間は限られている。
その限られた範囲内で何かネタを探さねばならないのだから、どんな物でも目を通すべきだ。
本当は他人に上がり込まれるのが一番嫌なのだが、外でやるのはさすがにまずい。この家の中でなら、何が起こっても、誰も気づかない。
仕方なく招き入れた。
警戒心を抱かせては何にもならないから、一生懸命愛想良く振る舞った。
笑顔の裏で、実は何度舌打ちしたかわからない。
礼儀を知らない高校生どもは、手土産も持って来ない。サインが欲しいと言いながら、色紙も持参していない。他人の家を遠慮もなくじろじろ見回す。
いつからこの町にだと?
本当に立ち入りすぎだ。そう思うなら聞かなければいいだろうが。
しかし、腹を立てて追い出しては元も子もない。
さりげなく、ブラインドの隙間から外を見るようなふりをして、呼吸を整える。
露伴は必死に自らを宥めながら、彼等の質問に答えてやった。
しかし物事には限度があって、平静を装う顔の筋肉も引きつる。
ああいっそ、こいつらに言いたいことを思う存分言えたら、すっきりするんだが。
まだだ。
まだだめだ。
油断しきったこいつらが、わざと目に付くように置いた原稿に触るまでは辛抱しなくては。
こいつらが本になったら、後は何をしてもいい。何を言っても構わないんだ。それまでは耐えなければ。
深呼吸でもしたいところなのだが、突然そんなことをしては、怪しまれる。何か気を紛らわせるいい方法は……。
「ム……」
髪の長い方の男の肩に、何か動くものを見つけた。
アホ面と目を合わせたくないので、顔以外の部分を見ていたのが功を奏したようだ。
蜘蛛だ!
「ちょいと失礼!」
いいものが手に入った。
これを使おう。
それほど間は持たないだろうが、この蜘蛛にかまけている間は、こいつらのやることから目を背けられる。
しばらく蜘蛛で遊んで、落ち着かなければ。
ただの偽装のつもりで蜘蛛を手にした露伴だったが、ついつい本当に夢中になってしまった。
これがオニグモか!
現物にお目に掛かるのは初めてだ!
興奮のあまり、露伴は高校生達に、漫画とリアリティについての持論を説き始める。
そして、いつもの癖が出てしまったらしい。
珍しい物、初めての物に触れると、試せることは全てやっておかなければ気が済まない。
いつもの様に対象の味も確かめていると、長髪の方が気分を害したか、戻しそうになっていた。
人の仕事部屋で吐かれでもしたら、たまったものではないが、注意している場合ではない。
なんて奴だ。初対面の人間の前でゲロを吐きそうになるとは。
だが、いい。参考になる。万が一の時は、こいつに床掃除をさせればいいから、今はやらせておこう。
また癖が出た。
スケッチブックとペンを手にしてしまった。
が、突然うそっぽい吐き方に変わったので、そこで興味を失う。
そして。
しまった、何を夢中になっているんだ、僕は。
蜘蛛に構っている辺りから、つい本来の目的を忘れて没頭してしまった。
こんなことをしている場合ではなかった。
あまり時間をかけていると、また何か別のことに集中してしまいそうだ。
瞬間、露伴は策略を巡らせる。
この二人、最初からリラックスしているし、遠慮もあまりしていない。二人きりでここに残して行けば、躊躇せずに勝手に机の上を漁り始めるだろう。
決めた。
「台所からサインペンを取ってくるよ」
言ってしまってから、後悔した。
漫画家の仕事部屋にサインペンが無いなんて、この二人が不審に思うかもしれない。それより、どうして仕事部屋に無くて台所にあるのか、それも気になるだろう。
露伴は焦ることなく、続ける。
「紅茶でも出すよ」
落ち着け。
今のところ、うまく行っている。
こんな演技をするのは初めてだが、だからと言って緊張する必要はない。
本当はサインも茶も出したくないのだが、それを勘づかれると非常にまずい。折角の獲物を取り逃がすのだけは避けたい。
もうすぐ。
もうすぐだ。
あと少しだけ我慢すれば、この無礼な二人は露伴の言いなりになる。
ページを破り取った時、広瀬康一は凄まじい悲鳴をあげた。
血も少し出ていた。
痛かったのかな?
だが、まあ大したことではない。
ページを全部取り上げるとどうなるか。直感的に、露伴はその結果を察していた。
風切り羽を失った鳥の末路と同じだ。
多分、最後には死ぬだろうな。
死んでも構わないが、ここに死体を置いて行かれるのは少し困るような気がする。
いや、置くのも悪くない。
まだ腐敗して行く人間の身体を生で観察したことはない。一体や二体くらいは、サンプルとして欲しい。
生きていた間の記録は手に入るし、死んだ後も使い途がある。そうと解れば、さっさと殺してしまおう。
そう思ったのだが。
一つ忘れていたことがあった。
この長髪の闢cとかいう奴がいたのだった。あまりの見苦しさに、無視し続けて忘れてしまっていた。
こいつはいらない。
死体にして腐って行く様子を見てもいいが、それは後から康一で試せば済むことだ。
適当に記憶をいじって追い出すか。
だが、そうなると、どの程度改ざんすればいいだろう。今日康一と道で出会った部分から消すのが一番か。しかしその間に空白の数十分を作ることになる。
ならば、一度、二人とも帰そう。
明日、康一だけをここに呼び寄せればいい。来るように書いておけば、勝手に歩いて来るだろう。
紅茶を出すのも面倒だったので、露伴は家に置いてあった色紙を二枚出し、その後、二人の余白に同じことを書き込んだ。
『今あったことは忘れる。岸辺露伴に紅茶とクッキーをご馳走になった』
ついでに、露伴がとても良い人だったのでまた遊びに行きたい、そう付け加えた。
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