うんざりだ。
 どうしてこの岸辺露伴が、読者に媚を売るような真似をしなくてはならないんだ?
 サイン会なんて、くだらない。
 それも、誰の趣味かは知らないが、どうして熱海まで来なければ……


 二月末。
 何故か露伴は温泉旅館にいた。
 会場となるホールから、車を使っても三十分はかかる。不動産屋の小倅である、入社五年の担当は、嬉々として露伴に話しかける。
「やっぱり来て良かったですね、先生」
 貴様が嬉しいのは、この旅行の費用が全て会社持ちだからだろう。
 露伴は皮肉っぽく彼を見遣った。
 他に、彼が喜ぶ理由など思いつかない。
 先日、偶然彼の記憶を読み取ってしまったので、この男の頭の中はだいたい掴んでしまった。だから断言できる。
 サイン会なんてものは嫌いだと、前から言ってあったはずなのだが。
 勘弁ほしい。
 どこの誰とも知らない輩にサインをくれてやって、あまつさえ握手までして、「頑張ってください」とか「応援してます」とか言われて。言われなくてもそんなことは知っている。もっと気の利いたことが言えないのか、あいつらは。そしてその度に、ちっとも嬉しくないのに「ありがとう」と返さなければならないのだ、こういう催し物は。
 キャンセルして帰ろうかと思う。
 その流れ作業をする無駄な時間、家にいれば原稿の二十枚は描ける。
 帰りたい。
 帰ろう。


 そもそも、サイン会は明日の予定だ。
 あえて前日の昼間から来たのは、やはりこの男が遊びたいからなのだろうか。
 まさか、露伴を労うつもりで、いらぬ気を回したのか。
 だとしたら逆効果だ。
「先生、まずは露天風呂ですよ」
 着いた早々、風呂に入りたがるあたり、やはりこの男の慰安旅行なのかもしれない。
「結構だ。僕は入りたくない」
 というよりも、この男と二人で風呂に浸かりたくなんかない。
「そう言わずに。折角来たんですから」
「入りたいなら、一人でさっさと行け!」
 しぶしぶ、男は一人で部屋から出て行った。
 残された露伴は、部屋の中を見回した。
 居心地が悪い。
 基本的に、和室は好かない。
 まず第一に、座るのが嫌だ。
 どうして椅子の一つも用意していないんだ、ここは。
 胡座をかくのも正座するのも御免だ。
 どうせ泊まるのなら、もっと会場に近いホテルにしてくれた方が良かった。
 この後鍋が登場して、浴衣姿で二人それをつつき、枕を並べて寝るのだとしたら、最悪だ。
 もし本当に鍋が出て来ようものなら、即刻ここから出て行く。


 その露天風呂とやらに、猿でもいるというのなら、猿見物に入っても構わない。が、別段珍しくもないただの風呂だ。
 庭も平凡。
 部屋も同じだ。
 ちっとも面白くない。
 ただでさえ、サイン会などという意に添わない行事に連れ出されて気分が悪いというのに、よりにもよって、こんな所に泊まらされるとは。
 あいつ、この露伴に何か恨みでもあるのか?
 実は本当に恨まれてもおかしくないだけの振る舞いを、普段露伴は嫌というほど彼にしていたのだが、本人に全く自覚がなかったため、いくら考えても見当もつかない。
 ポットのそばに置かれているのは、ティーパック。
 ろくな茶じゃないな。手抜きだ。
 置いてある菓子も、明らかに安物だ。そこいらの駅の売店でも売っていそうだ。
 何から何まで気に食わない。
 部屋にこれ見よがしに飾ってある壺もセンスが無い。
 こんなところに連れて来られるとは。


 温泉なんてものは、ひからびた老人でも入れておけばいいんだ。
 少しずつ苛つき出した露伴は、再び編集部の余計な気遣いに悪態をつきはじめる。
 まさかこの露伴の肩が凝っているから、その疲れを癒してやると言うのだったら笑止だ。
 普通に仕事をしているだけで肩が凝るような、そんな三流漫画家と一緒にされては困る。連載を持っている以上、健康には人一倍気を遣っているつもりだ。肩が張ってペンを動かせない、などと甘えたことを言うのは素人だけだ。
 一人で部屋にいるだけで、いくらでも悪口を思いついてしまう。
 却ってストレスが溜まりそうだ。
 どうしてくれようか?


 一人でのんびりと湯に浸かり、部屋に戻った青年は、そこに大事な先生の姿が無くても、さほど驚かなかった。
 あの好奇心旺盛な先生のことだから、その辺でも見て回って、堂々とスケッチブックを広げてでもいるのだろう。そう判断した。
 しかし、夕食時になり、それでも戻らぬとあってはさすがに不安になる。
 しかも。
 運ばれて来た夕食は、なぜか一人分だった。
「あの……二人、なんですが?」
「お連れの方でしたら、二時間ほど前にお帰りになりましたが」
 笑顔でそう答えられ、青年は本当に目の前が真っ暗になった。


 サイン会。
 岸辺露伴先生急病の為、中止。

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