悪い夢だと思いたい。
なぜ自分がこんな目に遭うのか。信じられない。
しかし現実だ。
この流れ出る血も、胸に突き刺さる矢の存在も。
学生服の男は、露伴を射抜いた後もしばらく様子を窺っている。
人が死ぬのを見て面白いのか?
面白いのかもしれない。
断末魔の叫びや苦悶の表情、絶命する瞬間まで、確かに見ていて損はない光景だろうと思う。露伴だって、機会があれば間近で観察したい。
確かに見たいさ。見たいがな。
見られている対象が自分となると話は別だ。
不愉快だ。
だいたいどうして、自分が突然こんな真似をされるのか、見当もつかない。
矢を抜くべきか、刺したまま病院に駆け込むべきか、露伴は迷う。
待てよ……?
何を落ち着いてそんなことを考えているんだ?
胸に矢が刺さっているんだぞ?
多分、ここは急所だと思う。
放っておけば死ぬような場所だと思う。
「……?」
おかしい。
確かに痛かったし、刺さった感触もあった。
今もまだ矢は突き立てられたままだ。それは間違いない。
しかし。
苦痛はさほど感じない。
一瞬だけ痛みを感じたが、もう平気だ。
滲んでいた血も止まりかけている。
ああそうか。
死ぬからか。
痛くもないし血も出ない。死ぬんだ、きっと。
そう思った時、男が近付いて来た。
膝をつき、見上げた先で、男は平然と矢を掴む。
「やはり死ななかったな。まったく、面白い町だ」
死ななかった? やはり?
言っていることがおかしい。
こいつ、春先によく出るタイプの、あれか?
だとしたらやばい。
このまま解剖されたり、後から死姦されたり、五体をバラバラにされたりするかもしれない。まともじゃないんだ、何をされてもおかしくないぞ。
先程より遙かに冷静になった露伴は、男のどんな動きも見落とさぬよう注意する。
「おめでとう、センセイ」
露伴が誰かということくらいは知っていたらしい。
男は何の感慨もなく、一気に矢を引き抜いた。
「なっ……!」
それでも、血は僅かに二、三滴飛び散っただけだった。
抜かれる時も、痛みはなかった。
身体を貫通していた異物が、同じ道筋を通って出て行く。想像してしまい、露伴は知らず笑みを浮かべる。
すごいぞ、これは。
刺さっていた物が抜けると、こういう感じなのか。今、信じられないくらい気持ち悪かったぞ。こんなに気持ち悪いものなのか。今度使えるな。
いや。今度があれば、の話だったが。
「どんな能力なのか、いずれ確かめさせてもらうよ、センセイ?」
余裕たっぷりの捨て台詞を残し、男は弓矢を抱えて悠然と歩き出す。
取り残された露伴は、まだそこに座り込んだままだった。
すぐに気づいた。
射抜かれたはずの胸に、傷がない。
服は確かに破れているが、身体に異常はない。
治っている?
夢や幻ではなかったはずだ。
男はいた。弓矢を持っていた。そして露伴に放った。刺さった感触も、抜かれる時のおぞましさも、全て本物だった。
第一、服についた、この乾いた血は何だ? やられたという証拠だ。
何があったんだ?
考えても理解できそうにない。
そっと、胸に触れる。
やはり傷はない。
足に力を込め、立ち上がってみる。
立てた。
どこにも何の異常もない。
五分前と、何も変わっていない。
あの男は、何をした?
この露伴に、何をしたんだ?
何が起こったのかはわからない。
そのメカニズムも理解できない。
しかし、一つ、今になって判明したこの事実。
わざわざ杜王町まで、引越祝いと打ち合わせを兼ねて現れた担当の青年は、菓子折を差し出した後、今週分の原稿に目を通した。
露伴は何も意識していなかった。
いつもと同じ、これまでと同じく、ただ見せただけだった。
時間はそれほどかからなかった。
突然、このおしゃべりな青年が無口になった。
不審に思い、ティーカップを下ろして、露伴は彼に呼びかけた。
次の瞬間。
青年は顔を上げた。
「……!」
彼の顔から、何枚もの紙がめくれていた。まるで本のように。
「せっ……先生……? なんだか、変ですよ……?」
何が起こったのか、咄嗟に露伴にも呑み込めない。
なんて不気味な顔なんだ、これは。
異常な事態を前にしておきながら、露伴は逃げるどころか彼に近付きその顔に触れる。好奇心が勝ったのだ。
本当に紙だ。
しかも何か文字や写真、イラストもついている。
日本語ではないし、世界中どこを探してもこんな文字がないと、すぐにわかるような、でたらめな。
「……読める……?」
変な文字のはずが、なぜか露伴にはそれが読める。
書いてあったのは。
「おい、君。入社したのは何年前だ?」
パニックを起こしかけていた青年の頭を二、三回殴って、露伴は質問に答えさせる。
「ひいぃっ……五年前です! 一九九四年四月です!」
「誕生日は?」
「六月十九日です!」
書いてあるのは、この青年の個人情報のようだ。
子供の頃の癖。初恋の思い出。昨日、上司に付き合って三軒はしごした。おかげで彼女との約束をすっぽかした。今度バッグを買ってやる約束をさせられた。今日露伴のところへ持って来た菓子は自腹だったので安く上げたかったが、岸辺露伴の機嫌を損ねたくないので奮発した。新幹線で隣に座った奴がくしゃみをして、自分の弁当に唾が飛んだが、怖そうな男だったので黙っていた。今読んだ原稿。今週も傑作だ。
嘘偽りない、真実のこの男の記録。
「そんなものが読めるだと……?」
青年の顔から手を離し、露伴はしばし考え込む。
問題はなぜこうなったかではない。
これを、今後どう利用するか、だ。
岸辺露伴の人生において、決定的な何かを踏み越えた。それを自覚せずにはいられない。
輝かしい何かに向かって、今一歩踏み込んだ。
これは、使える。
使い途はわかっている。
傑作を描き続けるために、そのために授かった。そう感じる。
しかし今処理しなければならないのは、こちらだ。
露伴は青年の方を向き直ると、これをどう始末するかについて考え始める。
ひとまず。
……せっかくだから、もう少しこの男の記録を読むことにしよう。
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