何もかも、露伴が抱いたイメージそのまま。
 頭に描いていた通りの部屋ができている。
 家中を点検し、露伴はその結果に満足する。やはり彼等もプロだ。引っ越しの全てを任せ、自分はスケッチに専念して本当に良かった。
 新しい根城の完成に、露伴は気を良くする。
 仕事部屋として選んだ部屋に入り、使い慣れた椅子に座ってみる。
 窓の位置、そこから差し込む光。思った通りだ。
 目を閉じ、耳を澄ませる。
 風が吹き抜ける。揺れる街路樹の葉音。それだけだ。
 それしか聞こえない。
 十五分が経過した。
 一度だけ、人が通った。ゆっくりと、露伴の家の前を通過した。それきり、誰も通りかからない。話し声一つ、露伴の耳に届かない。
 やはり、大都市に建つマンションとは違う。田舎に来た甲斐があった。
 これだけ穏やかな環境を与えられ、良い作品が出来ないはずがない。
 新しい家。新しい仕事場。新しい露伴の城。
 露伴だけの、たった一人の為の新しい王国。


 どれほど隠そうと、いずれこの住所も誰かに知られるだろう。
 前のマンションはオートロックを突破できるファンがいなかったので救われたが、これからは今までのようにはいかない。居留守を使うのも手だが、無視するのにも限界がある。
 だが今はまだ、誰も来ない。
 誰にも邪魔はされない。
 折角だから今日はこのまま、新しい作品の構想を練ろうか。
 こんなに静かなのは久しぶりだ。何か、今までとは違うものが浮かびそうだ。
 それとも、少し外を散策してみようか。
 きっとこれだけ静かな町ならば、外の空気もきっと何か良い影響を与えてくれるだろうから。
 露伴は目を開き、窓から見える景色を楽しんでみた。
 日は落ちかかっていた。二月の昼は短い。
 夕日を拝むのも悪くないな。
 そんなロマンチストではないが、今日はこの町に来た記念の日なのだから、少しくらい馬鹿馬鹿しいことも許されてしまうような気がする。


 不意に、窓の下に目を落とした。
 何かが視界の片隅で動いたように感じたからだ。
「……人間、か?」
 犬や猫の類にしては大きかったと思う。
 巡らせると、家の前の街路樹の下に立つ男の姿を見つけた。
 男、というには少し若すぎたかもしれない。
 学生服を着ているのだから、多分高校生なのだろうが。
 その目。その唇。人生をまだ十七、八年しか生きていないはずの高校生にしては、背負った影が大きすぎる。
 珍しいタイプだな。
 修羅場をくぐり抜けてきた不良とか、そういう感じでもない。何か特殊な不幸の匂いのする男だ。
 ああいうタイプ、そそられるな。取材を申し込んでみたい。
 にわかには信じられないことだったが、男の視線は露伴のそれと交錯していた。
 あいつ、僕を見ているのか……?
 ガラス一枚隔てた露伴の姿が、外にいる男にはっきりと映っているとは思いがたい。
 しかし、その男は確かに露伴を見ていた。
 家に押しかけてきたファン、ではない。露伴を見る目が違う。露伴のファンはもっと、熱に浮かされたような目で、露伴を通して露伴の作品を見ている。
 この男は違う。露伴自身を見ている。
 露伴が漫画家だということすら知らずに露伴を見ている。そんな感じの視線。
 絡み付くようでいて、どこか冷めたその視線に、露伴は何か嫌な予感がした。
 値踏みされている!
 直感だった。
 あの男は露伴を試そうとしている。
「……嫌な奴だな」
 露伴は目を逸らし、窓から離れた。
 外に出るのはもう止めだ。
 下手に外出しようものなら、あの男につけ回されそうだ。
 嫌なことは早く忘れよう。
 今日は理想の家を手に入れた最高の日なのだから。


 新しい家。
 新しい仕事場。
 新しい露伴の城。
 新しい、露伴の王国。


 外が夜の闇に包まれた頃、露伴はまた、先程の男の視線を思い出した。
 別の窓から街路樹の根元を覗ったが、もうそこには誰もいない。
 あれは幻覚だったと思いたいが。
 多分、無理だ。
 あの視線は当分忘れられないかもしれない。
 嫌な気分だ。
 露伴の生活の全てが、足許から砂のように崩れて行くような、そんな不気味な予感がする。
 この家も、漫画も、露伴の存在すらも、砂を蹴散らすように消えて行く。
 馬鹿な。
 この露伴にそんな真似のできる者などいない。
 家も仕事も露伴も、幻ではない。そう簡単に壊されてたまるものか。
 しかし。
 何か不吉なものを感じさせる、あの視線。
 何かが起こる。露伴にとって決定的な何かが起こる。そう思わずにいられない。
「妄想だ」
 露伴は口に出してそう言い切り、つまらぬ思考を振り払う。
 忘れよう。どうでもいいことだ。


 実際、露伴はその男のことを忘れた。いとも簡単に、忘れ去った。


 数日後、男が露伴に矢を放った時、どこかで見たような目だと思った。
 矢の突き刺さる衝撃と、信じがたい出来事を前にした混乱。それらを感じた瞬間、露伴は気づいた。
『この男はこのために僕を値踏みをしていた』
 今頃思い出しても、もう逃れられない。
 露伴の築き上げた露伴の王国が、今まさに崩れ落ちようとしている。
 自らの内部に生まれようとする何か。その存在を感じ取った時、露伴の脳裏を砂と小石の風景が過ぎった。

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