郊外の、閑静な住宅街に建つ一軒家。
 都会でのマンション暮らしは性に合わなかった。これこそが理想の仕事場だ。
 荷物を次々と運び込む様子を、少し離れたところから眺めつつ、露伴は新しい家を見上げる。
 悪くない。
 先程から行き交う近所の住民の顔も、これまで住んでいたマンションの気取った連中と違って、素朴な味わいがある。
 こういう人間臭い方が、見応えがあるんだ。
 自然な表情と立ち居振る舞い。露伴が仕事をする上で参考になる。


「……あの先生、本当に何もしないんだな」
「また俺達の仕事ぶり見て絵描いてるぜ。本当、偉い先生ってのはわかんねえな」
 露伴に聞こえないのをいいことに、重い家具を運ぶ青年二人は顔を見合わせて溜め息をついた。
「仕方ねえよ。料金、倍貰ってんだぜ? 全部任せる代わりに、完璧に指示通りに配置しろってよ」
 細かく指定された家具の位置を描き込んだ見取り図には、チェストに載せる小物の並べ方のイラストまでついている。
「普通、そこまでやるか? こんなの描く手間かけるくらいだったら、俺、自分で載せた方がいいと思うけどな」
 まるで実際に何処かの部屋をスケッチしたかのような、完璧な絵。ソファの微妙な角度も、この絵の通りになっていなければ怒られそうだ。


 一方、淡々とスケッチをこなす露伴は、引っ越し作業の絵だけでは飽きたらず、家に背を向ける格好になって、今しがたそこで転んだ子供の泣き顔を描き始める。
「素直ないい表情だ。痛みと、血を見た動揺、そして周囲の大人への媚びまで含んでいるな」
 周囲の大人、といっても、そこで見ているのは露伴だけだ。当然、露伴には助けてやる気などない。
 観察者である露伴は、子供がどれだけ泣き叫ぼうと同情しない。仮にどうにかすべきであったとしても、露伴の家は今まだ荷物が箱詰めされたままの状態で、消毒液一つすぐには出せない。
 だから、助けようがない。
 それは言い訳で、本当は助けるべきだという義務感すら持ち合わせていないのだったが。
 大声で泣き叫ぶ子供は、そこに露伴の姿を既に認めていた。
 もうすぐあのお兄ちゃんが助け起こしてくれる。そう確信していた。
 しかし、露伴が子供の期待に応えるのは、その仕事の上でだけだったので、ある程度写し終えて満足すると、再び家の方へ向き直り、引っ越しスケッチを再開する。
 子供は小学三年生。「男の子なんだから泣かないの!」と言われるようになって久しくないが、今は同級生もいないので冷やかされる心配はないし、怖い母親も近くにいない。赤の他人であるあのお兄ちゃんに甘えても、誰にも知られずに済む。
 そんなことをぼんやりと思っていたのだが。
 あからさまに無視された。
 ひどい。
 少年は自力で立ち上がり、それでも尚泣きながら露伴に近付く。
「お……お兄ちゃん、痛いよぉ……」
 しゃくり上げながら露伴の服の裾を引いた。途端。
「うるさい! あっちへ行け!」
 別に血が付くからとか、泥だらけの手で触って欲しくないとか、そういうことではない。丁度今、必死に働く青年の一人が、肘掛け椅子の見た目以上の重さにバランスを崩し、椅子の下敷きになりながらもなんとかそこから脱出し、椅子を汚さないように持ち直そうと挑んでいる最中だったので。
 その凄まじい形相を逃すまいとする露伴は、転んで膝を擦りむいた子供のことなどとっくに忘れ去っていた。
「すごいぞ、今日は! 引っ越しだけで、これだけのバリエーションが見られるとは!」
 次々とスケッチブックが埋まって行く。
 やはり、自分で参加せずに、こうやって端から見ていて正解だった。働く男の情熱がよく伝わって来る。素晴らしい場面だ。
 露伴が、一つのことに夢中になると、他の些細なことなど目に入らなくなる人間だなどということを想像もしていない少年は、更に目が潤む。
 大人からこんな仕打ちを受けるのは始めてだった。
「ひどいよぉ、お兄ちゃん、ひどいよぉ〜!」
 傷の痛さで泣いていた時以上の激しさは、真剣に露伴の引っ越しを行う数人をも注目させる。


「おい……今度は何やってんだ、あの先生」
「俺にわかるわけないだろ。なんでただ絵描いてるだけで、子供泣かせられるんだよ……?」
 理解できない現象は、目を瞑るべきなのか、見た目で判断できる範囲のことだけ処理すべきなのか。
後者の場合に当てはめるなら、理由はわからないにしても、子供が泣いていることだけは間違いないので、その子供を宥めれば、少なくとも今一番大きな問題は解決しそうだ。
「おまえ、行って来いよ」
「やだよ。あの先生のやることに口出ししたら、後が怖いぜ?」
「どうする……?」
「見なかったことにしよう。俺達は、あと一時間以内に、家の中をこの絵の通りにしなきゃならないんだからな」


 まとわりつかれては、絵が描けない。
 本当に邪魔だ。
 何度怒鳴りつけても離れようとしない。
 さっきから言ってるだろう! おまえの応急手当なんかできないから、さっさとどこか別の家の門を叩くか家に帰るかしろと!
 どうしてこいつは僕にくっついてくるんだ?
 ガキってやつは、動物並か?
 言葉が通じないのか?
 なんとかの耳に念仏と言うが……こいつは馬以下だな。


「早くその手をどけろ! 邪魔だ!」
「ふぇぇっ……おっお兄ちゃんがっ……意地悪するからっ……」
「聞いているのか! 僕は今忙しいんだ!」


 時計を見ながら作業を進める青年達も、やはり気になるので時折そちらへ目を遣る。
「……忙しいって……あの人が一番暇だよな……?」
「気にするな。俺達は仕事しよう。きっとあの人、あんなことやってても、時間になったらこっちに来て進行具合確かめるぞ」
「やめろよ、その暗い発想。……早く帰りてぇなあ」

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