このマンションの住人には、それ相応の肩書を持った人間が多い。
 日中、一人で過ごすことの多い彼女の夫も、身体一つで興した事業に成功し、三年前に比べると年収は十倍になった。
 隣人は弁護士、真上の部屋には大病院の次期院長夫妻、その他諸々。
 成金と呼ばれようと、彼女は今の贅沢な暮らしに満足していたし、上品なマンションの住人にも虚栄心が満たされた。
 ただ一つ不満があるとすれば、それは右隣の部屋に住む若い男が、どうもこの高級マンションに相応しくないように思えたことだけだ。
 二十歳になるかならないかというこの若い男は、毎日毎日部屋に籠もったきり、殆ど外出らしい外出をしない。かと思えば旅行にでも行っているのか、平気で三日も四日も空けて帰って来ないこともある。
 きっと何か人に言えないような仕事をしているんだわ。
 でなければ、あの若さでこんなマンションを買えるはずがない。
 それとも、親が資産家なのかしら?
 毎日遊んで暮らして、親の財産を食い潰す道楽息子なのかもしれない。
 何となく気になってしまうので、いつもそれとなく隣の様子を窺う日々を送っている。
 そんな彼女の近頃の興味は、購入したばかりの携帯電話にあった。
 普通の主婦である彼女に、特別携帯電話を必要とするような事情などなかったのだが、テレビを観ているとその普及率が昨年より上がっており、ついに高校生や中学生、果ては塾通いの小学生まで持ち歩くようになったと聞いては、黙っていられない。
 全く無意味なことだったが、流行に乗り遅れたような焦燥から逃れるため、彼女は夫に頼んで一台買って貰ったのだ。
 ここ数日は、当然どこからも電話など来なかったので、説明書を片手に、必死に操作を覚え練習し続けていた。夜中になっても、すっかり虜になった彼女は気づかずに、大音量で最新のヒット曲を再生して遊んでいた。最近の歌手はよくわからないが、テレビCMで聞き覚えのあった曲を設定し、それをまた再生する。その繰り返しだ。


 そんな彼女が、今日再び隣の不審な男に注目したのは、珍しく隣から大きな物音がしたからだ。
 こっそりベランダから隣の様子を窺ってみると、複数の人間が激しく動き回るような気配。客なんて滅多に来ない部屋なのに。
 更に玄関に回り、ドアノブをゆっくりと動かし、僅かな隙間を作る。
 そっと覗いてみると、隣のドアは開かれたまま。そして段ボールの山。家具まで溢れ出している。
 確かにこのマンションは広い。部屋の数も多い。が、独り暮らしの男がどうしてこんなに大量の家財道具を持っているのか、彼女には理解できない。
 ちらっと見ただけでも、随分高そうな家具だとわかる。しかも自分より遙かにセンスがいい。
 誰か同居人でも増えるのかしら?
 だがその考えはすぐに打ち消される。運び込んでいるのではなく、次から次へと、出て来ているのだ。
 引っ越し?
 しかし、部屋の主である、あの胡散臭い若い男の姿が見えない。若くて健康な青年ならば、普通引っ越す時は業者だけに任せず、自ら率先して働くはずだ。いるのは全て、帽子と背中に引っ越し屋のロゴの入った男ばかり。
 商売に失敗して、夜逃げでもしたのかしら?
 これは競売にでもかけられた家具が運び出されて行くところなのかもしれない、と彼女は想像した。
 だいたい、様子がおかしかったのよね。
 最後に彼を見た時、顔色も悪かったし、なんだか苛ついていて、エレベーターの中につけられている鏡を、そのまま叩き割ってしまうのではないかという勢いで蹴り飛ばしていた。
 あれはきっと、資金繰りがうまく行かなくてイライラしてたんだわ。
 月に一、二度の割合でやって来る、人懐こい顔をしたスーツの青年も、あの爽やかさが却って怪しかった。多分、借金取りだったんだ。
 いやだわ。このマンションにそんな人がいたなんて。
 前にワイドショーで、エッチなビデオを作って売っている男の人がいるって言ってたけど、あの人もそういうことしてたのかしら。やだ、いやらしい、信じられないわ。


 本当に信じがたいのは彼女の行動の方で、その後二十分、彼女はそれ以上ドアが開かないようしっかりと片手で抑え、もう片方の手は自分の体重を支えるために壁にぴったりとつけ、中腰の姿勢を保ち続けていた。
 そろそろ疲れて来た上、ただ荷物が運び出されているのを見続けるのにも飽き始めていた。
 毎日欠かさず観ている連続ドラマが始まる時間も迫っている。
 ドアを閉めてリビングに戻ろうとした時、彼女はそれまでの想像を根底から覆される光景を目の当たりにする。
 ……あら、いたわ。夜逃げしたと思ったのに。
 マンションの広い廊下の片隅に、隣人は立っていた。
 しかも搬出の邪魔にならないような位置に。
 つまり、手を出そうという気など全くないと見ていい立ち方だ。
 自分の引っ越しなのに、偉そうだわ。
 しかも、それだけではない。
 なぜか男の手にはスケッチブックがあり、額に汗して働く男達を見ながらペンを走らせている。
 ……何、あれ。
 何をしているのかしら。ちょっと、あなたたちも、「見てないで手伝え」って言った方がいいわよ。なんだか頭にくるわ、あの態度。
 しかし、業者の方は、依頼主の妙な動きが多少は気になっているようだが、たまにちらちら盗み見るだけに留まり、極力視線を合わせないようにしながら作業に勤しんでいる。


 そしてあらかた運び終えたのか、廊下に積まれた荷物も綺麗に姿を消した。
 その時。
「あっ!」
 隣の部屋の中から聞こえた。
 すぐに一人、何かを手にして外に駆け出して来る。
「すっすみませんっ! 先生、これ……」
 先生。
 その呼び方も変だ。
 が、今気にすべきはそちらではない。
 見ると、何かごつい物を両手で大事そうに支えている。置物のようだ。
「ああそれか。構わないよ、どうせ先月から止まったままだ。大したものじゃないから、捨ててくれたまえ」
 隣人は全く気にした風でもなく、またペンを動かし始めた。
 どうやら、荷造りの途中でついうっかり落としてしまい、慌てて主のところへ詫びに来たようだ。
 その後は何事もなく、引っ越しは無事に終了した。
 長時間、無理な体勢でいた彼女は、腰をさすりながら、人の気配のなくなった廊下に出た。
 変な人だったわね、本当に。
 しかしいなくなってくれて良かった。
 これでマンションの品格も保たれるというものだ。
 何気なく、隣の部屋の前に立ち、彼女は廊下の片隅に、何かが転がっているのを見つける。
「あら……ゴミだって言ってたのに、忘れてたのね」
 粗大ゴミを置いて行くとは、とことんまで駄目な男だ。
 拾い上げてみる。
 やけに荘厳な置き時計だ。先程の話通り、止まっている。
 しかも重たい。
 両手でそれを弄んでいると、エレベーターがこの階で止まり、誰かが降りて来た。
 まさかあの男が戻って来たのか、と身構えたが、すぐに違うとわかる。
「あら、小林さん。こんな時間に珍しいですわね」
「ええ。ちょっと書類を忘れてしまいましてね。お恥ずかしいかぎりです、歳かな?」
 人の良い、左隣の弁護士が帰って来ただけだったことに、彼女は心から安堵した。
「あれ、奥さん。アンティークですか?」
 手にした時計に話を振られ、彼女は一瞬ぎくりとした。
「え、ええ。……でも壊れているみたいで」
「ほう、すごいな。実は古い物に目が無くて、妻に叱られてばかりなんですが。……こいつはすごい。去年のヨーロッパ旅行中、これと同じ物を見ましたよ。ちょっと手が出せなかったな、あれは。それにしても奥さん、どこでこんな逸品を?」
 こんなお金持ちでも買えないような物を、あんな若い男が平気でゴミ扱いするなんて。やっぱり、人様に言えないような商売なんだわ。
「いいえ、私のじゃございませんのよ。今、お隣の方が捨てて行かれたんですの」
 物の価値のわからない男なんですね、と強調するつもりでそう言ったのだが。
「そういえば今、下で……岸辺先生、引っ越されたんですか?」
 また“先生”だ。
「残念だなあ。先生のサインを貰う機会を窺ってたんですが……しまったなあ、こんな急に。思い切って頼むんだったなあ」
「はあ……?」
「あ、奥さんはマンガなんて読まないのかな? でも、岸辺露伴先生は有名人だから別かな? いや、それにしても惜しいなあ、有名な漫画家が同じマンションに住んでたっていうのに……貰っておくんだったなあ、サイン」
 隣人は、いつまでも悔しそうにそればかりを繰り返していたが、そのうち壊れた時計を彼女の手に戻し、自分の部屋に入って行った。
 残された時計をまじまじと見つめた後、彼女はそれを大事そうに小脇に抱えて、自分もまた部屋に戻った。

メニューページへ
Topへ