こうるさい男が帰った後、露伴はテレビのリモコンに手を伸ばした。
 今日はなぜか、外の雑音が気になる。どうせ音が耳に入るなら、こちらの方がまだましのように思えたからだ。
 昼間に、特別観るべき番組などなかった露伴は、適当にリモコンを動かし続ける。
 と。
 目の前の画面の中で、故郷のM県の紹介が始まった。
 何のことはない、ただの祭りのリポートだ。
 住んでいたのは四歳まで。覚えていることは少ない。今こうやってテレビに映る景色にも、当然見覚えはない。
 それでも露伴は、ついつい見入ってしまい、自分の記憶と合致する場所をその中に求めてしまう。
 十五年以上経ってしまえば、当時のままに残るものなどあるはずもないのだろうが。
 画面は、県内の別の小さな町へと切り替わる。
 名前も聞いたことのないような、小さな町。自分が生まれた所からも少々離れている。
 全く見ず知らずの土地だったが、豊かな自然と、田舎臭い素朴な住民、そして野暮ったい街並みが映る。
 こういうのも、悪くないな。


 露伴は自分の仕事について考えてみる。
 原稿を描くのに、交通機関の利便性などは必要ない。
 描き上がった作品も、編集部まで送る方法は幾らでもある。
 重要なのは、露伴が落ち着いて取り組める環境。


 早く、ここから離れたい。
 このマンションから、明るい夜空を見上げるのにももう飽きた。


 露伴が理想としているのは、こんな殺伐とした、人間が溢れかえっている世界ではない。
 ちょっと耳を傾ければ、誰かがマンションの前でしているくだらない噂話が毎日のように聞こえる。三日に一度は、酔って壁を蹴飛ばす男が通る。近所の主婦が三人集まって隣の家庭の不和を笑い合う。昼間、背広を着た男が百人以上はこの下を通る。
 露伴はそんな社会に、全く溶け込んでいなかった。だからこんなにも気に障るのかもしれない。
 露伴からは、そんな彼等がよく見える。その独特の観察眼をもってすれば、どんな小さなことも見えてしまう。
 その一方で、彼等は露伴を知らない。
 全てを見ている露伴がいることに、彼等は気づかない。
 それは、真昼の空に浮かぶ月の姿と同じ。
 知ってもらいたいわけではない。
 ただ、邪魔をしないでほしい。ここにいる気難しい芸術家は、ちょっとしたことで仕事が手につかなくなってしまうのだから。
 早く、ここではない土地へ行きたい。


 もう一度、テレビに目を移す。
 さっき、自分は何と言っただろう。
 郊外の、閑静な住宅街に、一軒家を。そう言った。
 何も都内である必要はない。
 日本中、どこだっていい。
 逆に、範囲を広くした方が、露伴の求める最高の環境の合致する場所が見つかるかもしれない。
 日本中、どこでもいい。
 ただし、北海道や沖縄では遠すぎる。大雪や台風は、一軒家で独り暮らしをするにはリスクが高すぎる。
 原稿を送るにも、できるだけ時間が掛からない方がいいに決まっている。
 関西は肌に合わないような気がする。第一、下手に南下すると夏バテの危険もある。北上しすぎても、冬場困る。
 九州もだめ。四国もだめ。東北もだめ。
 そこまで考えた時、何か引っ掛かった。
 もう一度だけ、テレビを確認する。
 東北。
 生まれ故郷のある、M県。
 確か自分の本籍地は、杜王町。S市のベッドタウンとして、ここ数年急に発展したと聞いている。ならばもう、露伴が生まれた頃とは比べものにならないくらい開けてしまったのだろうが。
 よく考えろ。
 親戚もいない。知り合いもいない。生まれた家も、きっとない。
 帰るところなど、ない。
 よく考えろ。
 あの町に行っても、露伴の郷愁に訴える存在は、絶対に見つからないだろう。
 日本中、どこだっていいはずだ。
 何もあえて、そんなつまらない理由で、何も無い町に行くことはない。
 よく考えろ。
 たかがテレビに影響されたくらいで、故郷に帰るだと?
 この岸辺露伴が!


 だが、実際露伴はそうした。
 すぐに受話器を取ると、杜王町内で露伴の希望に該当する場所を探すよう手配してしまったのだ。
 そんな都合の良い場所がすぐ見つかるかどうかわからないと言われたが、露伴は聞き入れず、明日までに探せと命令した。
 そして翌日、本当に幾つかの物件が露伴の前に提示された。
 更に三日後、露伴は仕事を全て片付けると、実際に杜王町に出向いた。

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