自宅が仕事場を兼用している場合、往々にして外出は減りがちになる。
 つまり、居場所が限定される。
 露伴はその最たるもので、実際五日以上一歩も部屋を出ないことも珍しくない。
「先生、見てくださいよ。これ」
 客といえば編集者しかいない。
 嫌々ながら招き入れた相手は、慣れているので露伴が不機嫌でもあまり気にしていない。
「ついにPHS卒業ですよ」
 そう言って自慢げに見せたのは携帯電話。最新型らしい。
「いいですよ、これ。音は途切れないし、何処でもアンテナ三本立つんですよ」
 外回りの仕事の人間には、確かに必要不可欠かもしれないが、露伴には関係ない。
 家から出ないし、友達もいない。電話を持ち歩く必要性は全くない。第一、この部屋の固定電話も、月に一度か二度しか使わない。話す相手は編集部だけ。それ以外にかかって来るのは何かの勧誘かセールスのみ。殆ど聞かずに切るが。
 露伴が無関心だというのに、若い編集は尚も新機能について講釈を述べ続ける。
「特にですね、着信音がいろいろ選べて、最新のヒット曲も入ってるんですよ。早速それに設定しちゃいましたよ」


 目の前で、しなくてもいいのに曲を再生し始める。
 その耳障りな金属音に、露伴は昨夜のことを思い出した。
 このマンションの壁はけして薄くはない。が、偶然窓を開けた時、隣も同様だったのだろう。今と似たような音が流れて来た。
 仕事の合間、少し空気を入れ換えるつもりで開けた窓。
 嫌でも耳に入る不快な音響。
 すっかり気が削がれてしまった。
 あれは、携帯電話の音だったのか。
 あんな物がそう度々聞こえるようでは、仕事に集中できないな。
 どこのどいつが、こんなこうるさい物を開発しているんだ? 他人の迷惑なんか顧みない我が儘な奴が考え出したんだろうな。


 いや、携帯だけが問題なのではない。
 外を歩く人間の足音。夜間のそれは昼間とは比較にならない程響き渡る。
 近くにある自動販売機で、誰かが飲み物を買うだけでも気になる。
 昼は昼で、車が途切れない。エンジン、クラクション。
 マンションの前を誰かが通るだけで、その歩みは階上の露伴にも伝わって来る。
 全てが、露伴の仕事を妨げる。


 そうやって考えていれば、幾つでも上げられそうだった。
 特に今一番うるさいのは、この男の声だ。
「……君は、携帯電話を自慢したくてここに来たのかね?」
 冷ややかな視線を感じているはずなのに、男は笑顔で返す。
「ご冗談でしょう、先生。仕事ですよ、仕事」
 だったら、さっさと仕事の話を始めろ。この男は余計なおしゃべりが多すぎる。後から編集部に電話して担当を変えさせよう。
 それでもまだ、なかなか本題に入らない男を無視し、露伴はまた一人の世界に戻る。


 担当を変えるように、このマンションの周りの環境を変えることは、いくら露伴でも不可能だ。
 ここに不満があるのなら、自分が出て行くしかない。
 引っ越すのは、荷造りなどの面倒もあるが、けして悪い案ではない。
 まず壁一枚向こうに隣人がいないこと。これは外せない。
 となると一軒家。
 次に、自動販売機がないこと。コンビニがないこと。人が深夜に歩き回らないこと。
 郊外だ。郊外の一軒家。
 車も少ない方がいい。昼間でも、どこの誰だかわからない輩が徘徊しないような場所。そう、家の周りを歩き回るのは、その近所の住民だけで十分だ。
 そんなところに引っ越したい。


 ふと我に返る。
 目の前の男は、まだつまらない話を一人で勝手に喋り続けていた。
 勿論、露伴に遠慮はない。
 男が話している最中であっても、無理矢理そこに割り込む。
「君、実家は確か不動産屋だったよな?」
 聞いていないようで、実は露伴は話の八割は耳に入れている。随分前に一度だけしていた身の上話も、露伴はしっかり覚えていた。
「ええ。涙出ちゃうくらい、小さいですよ」
 そんな店の規模なんかどうでもいい。
「でも先生、引っ越しでもするんですか?」
「いい物件があれば、是非したいと思っているんだ」
「初耳です。水臭いなあ、いつからそんなこと企んでたんです?」
 いつからかと問われると、つい十分前からだ。だがそんなことまで教えてやる必要はない。
「できれば郊外の、閑静な住宅街に一軒家が欲しい」
 普通の人間の口から唐突にそんな言葉が出れば、誰もが吹き出すところだが。
 相手は岸辺露伴だ。どれほどの財産を抱えているのか、想像もつかない。
「わかりました、調べて来ます」
 この男は余計な無駄口は多いが、仕事は正確でしかも早い。専門外のことであっても、露伴が「やれ」と言えばなんでもこなしてしまう。
 その時、テーブルに載せられていた携帯電話が鳴った。
 今度は本物の着信。
 またこの嫌らしい金属音だ。
「あ、すみません。ちょっと失礼」
 電話を手に立ち上がった男に、露伴は怒鳴りつける。
「僕のところに来る時は、その癇に障る下品な音を止めて来てくれ!」
 しかし、露伴の癇癪に慣らされてしまった男は、苦笑しただけに留まった。

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