七時二十分
昨夜はあまり眠れなかった。
チープ・トリックのせいでついたこの傷が原因だった。
横向きで寝るか俯せで寝るかで迷って、無駄な時間を費やしたのもあるだろうが、その後も寝返りを打つ度に背中に刺すような痛みが走り、何度か目を覚ました。
朝食はあまり食べたくなかったのだが、約束の時間にはまだ早すぎる。他に何も思いつかなかったので、キッチンに立った。
冷蔵庫の中を確認すると、卵が一つしか残っていなかった。川尻早人に話を聞いて、その後時間が取れるようなら買い物をして帰って来よう。
パンが焼けるまでの間、新聞に目を通す。
取り立てて珍しい記事はない。
死亡欄に、知り合いのスタンド使いの名前は載っていないので、今のところ全員生きていると思われる。が、この方法で知人の生死を推し量るのにも、多少無理があるということを今は知っている。
特定の相手に殺されてしまった場合、死体は残らない。行方不明とされて終わる。
「死体になった自分をじろじろ見られるのも嫌だが、生死不明で捜し回られるのも嬉しくないな……」
七時三十分
朝食を終え、食器を棚に全て戻した時、頬にいつもの感触が無いことに気づいた。
イヤリングを外したままだった。
昨夜、寝る時に外したのだから、寝室に置いてあるはずだ。
二階に戻り、寝室に入った時、窓から見える空模様が気になった。
天気予報はまだ見ていないが、微妙な雲が流れている。
降ってもおかしくはない。そういう感じがする。
どちらにせよ、早朝出歩くのは久しぶりだ。夏とはいえ、朝はまだ肌寒い場合がある。服装も考えた方がいい。
寝室でイヤリングを付けた後、露伴はクローゼットの中をしばし見つめる。
七時五十五分
気になるのでテレビを付けてみた。
天気予報が入る頃合いだ。
が、真っ先に聞かされたニュースは、犬と猫の大行進。
「……ああ、あの集団のことか」
邪魔だったので、露伴が命令して走らせたのだった。
そんな大騒ぎするようなことでもなかろうに。
やはり、ここは田舎だ。その程度のことが朝っぱらから話題になるのだから。
「僕も、ここは嫌いじゃないがね」
まだほんの数ヶ月住んだだけ。町民は悪い人間ではないが、少々煩わしいこともある。ちょっと外を歩けば知り合いに出会して話しかけられる。
それでも、悪くはない。
こんな町でも、けして嫌いではない。
具体的に何が気に入ったのかと問われても答えられそうにないが、それでも、ここに住み続けたいと思わせられる何かが、確かにこの町にはある。
都会の無機質な人々はもう見飽きたからかもしれない。
この町の人間達は、まるで原色の魚のように、一人一人が独特の色彩を持っていた。
「魚と言うより、小魚だな……」
ちょこちょこと動き回る、頼りない小さな存在。
だからいいのかもしれない。
露伴は水槽の外側から彼等を見ているに過ぎないかもしれないが、観賞用としては最高だ。どんな人間も全て、露伴の作品に欠かせない大切な素材ばかり。
もしかしたら自分も、既に彼等と共に水槽を泳ぎ回る魚の一匹になっているのかもしれない。
だがそんなことは、どちらでもいい。
この町を好きになり始めていた。
できることなら、何も変わらないこの田舎町で、一生漫画を描ければいいんだが。
八時五分
何やらつまらない空想に浸っている間に、時間が過ぎてしまったようだ。
小学生の通学時間を考えると、そろそろ出た方がいい。
というより、むしろ遅れてしまったかもしれない。
ガスの元栓その他を確認し、露伴は玄関の鍵を掴んだ。
「待てよ……?」
背中の痛みはまだしばらく続くだろう。
この状態で川尻早人の家のそばまで歩いて行くのか?
途中で痛み出して座り込むようなことになって、待ち合わせに遅れてしまったりしたらどうなる。仗助のクソったれに馬鹿にされるのがオチだ。
自分から言い出しておいて、遅れて行くというのは許されない。
露伴は慌てて二階へ戻り、滅多に使わないキーを持ち出した。
車を出そう。
その方が早いし、背中にも負担が掛からない。
万が一雨が降っても、車の中にいれば濡れずに済む。
実はこれは、買ってからまだ何度も乗っていない新車なので、泥はねなどのことを考えるとあまり出したくはないのだが、汚れた時は汚れた時だ。洗えばいいのだし、露伴が自分でするわけではないから構わない。
八時十五分
予定よりも少し早く着いた。
まだ誰も来ていない。
雨が降ると思ったのは、杞憂だったらしい。
八時二十三分
バックミラーに目を遣った瞬間、とぼとぼと歩いて来る小学生が見えた。
あれか?
八時二十九分
背中。
後頭部。
衝撃があった。
それの正体は、話には聞いていたので大凡は知っていた。
体内で爆発が起こると、こういう感覚なのか……。
ひどく場違いなことを考えている。その自覚はあった。
八時三十分
雨に霞む、通りの向こう。
大小の人影。
呼ばなければ。
雨にかき消される。
叫ばなければ、聞こえない。
だが、もう届かないのかもしれない。
何故か突然、頭の片隅を小さな、色とりどりの美しい魚が泳いで行った。
あの魚の仲間になりたい。
最後の最後に、正直な気持ちが溢れ出た。
しかし言葉にはならない。
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