骨折で入院中の男子高校生は、暇を持て余していた。
可愛い白衣の天使はいないし、医者はむさ苦しい親爺で、右隣のベッドにいるのは半分耄碌した爺さん、左側は夜になると必ずホームシックになる小学生。
左腕が使えないだけなので、さほど不自由はない。今もまた、適当に院内をふらふら歩き回っているところだった。
ちょうどその時、外来に血塗れの男が姿を見せた。
どこかで見たような気がする。
勿論、彼も、ベッドに転がって読むのはジャンプ。実は『ピンクダークの少年』を楽しみに毎週買っていた。
見間違いではない。
こんなところで会うなんて。
もしかして、この人も杜王町に住んでいるのか? だとしたらラッキーだ。サイン貰えるかも。
まあ、今この場でそんなことを頼むのは非常識だろうが。それくらいはわかる。
背中に大きな傷がある。服の上から切り裂かれたようで、流れる血が衣服を染め続けている。
見た目ほどは酷くないのだろうか、当人は落ち着いて受付に立って話をしている。
正面から見ている人間は全く気づかないが、彼の背中をまともに見る方は、皆目を見開いて固まってしまっている。
かの高校生も、同じようにそこばかりをまじまじと見つめてしまう。
あの人、漫画家だよな……?
なんであんな場所をあんな風に傷つけているのだろう。
通り魔に後ろから襲われでもしたのかよ?
まるで何か生き物の手形のようだ。
五本指の形に傷がついている。それにしても気持ちの悪い形だ。
よくよく見れば、頬にも動物の爪の跡らしき引っ掻き傷がある。
そちらの方は、多分猫だ。
猫に引っかかれたのは良しとして、あの背中は絶対に猫ではない。猫にあんな真似ができるなら、危険な猛獣として扱われ、誰も猫なんか飼わない。
何があったんだ、あの人。
呆然と露伴の姿を見つめる高校生やその他の視線など全く頓着していないらしく、露伴は受付で口論を始める。
そのうち後ろを振り向いて、実際に背中を見せた。
「事情があって、背中の皮を剥がされそうになっただけだと言っているだろう! ただそれだけのことだ!」
背中の皮。剥がされる。
常識では考えられないような出来事を、“それだけのこと”と言い捨てる。
やっぱり、漫画家ってのは普通の人間とはひと味違うんだ。
認識もさることながら、そんな目に遭うことからして凄い。
しかし、傍観しているだけの高校生のように、素直に感心できない人間もいる。
剥がされそうになった、などと言われて、そのまま「はいそうですか」で済ませるわけにはいかない。何やら傷害事件のようだし、警察に連絡した方がいい。
そう露伴に伝えたようだった。
が。
「いらん! やった張本人なら僕の方で始末をつけてある! だからさっさとしてくれ!」
響き渡る露伴の声。
それまで見ないふりをしていた患者や病院関係者も、一瞬動きを止める。
……“始末をつけた”……?
どういう始末をつけたんだ?
警察に突き出したとか、そういうことだよな?
まさか、報復手段に出たのか?
相手も今頃皮を剥がされているとか?
もしかしてもう死体になっているわけじゃあないだろうな?
露伴に注目する人々は、嫌な想像を巡らせてしまい、喉を鳴らして冷や汗を拭った。
「け、警察に……っ」
「断る!」
もしかしたら犯罪者はこの人の方かもしれない。
その場にいた人間の八割がそう感じ始めた。
外野が気にならない質の露伴は、そんな視線など物ともせず、怪我人とは思えない声を張り上げる。
「そうか、誰かに怪我をさせられたような言い方じゃあ納得できないわけか。わかった。……ナイフを口に銜えた猫が上から降ってきたんだ! それでいいだろう!」
頬にある引っ掻き傷を示しながら、そう言い放った。
しかし。
そちらの方が説得力に欠けた。
まだ、通り魔に皮を剥がされそうになったと言われた方が納得できたのに。
「何処かの馬鹿が、ナイフを道に落としてでも行ったんだろ。それを猫がたまたま銜えて遊んでいて、それが僕の背中に降って来た。そういうことにする! それでいい!」
誰が聞いても、今適当に話を作った、としか思えない。
高校生にも「絶対に嘘だ」と確信できた。
作り話だとわかっていても、文句を言える人間はいない。
もしかしたら犯人の皮を剥いだのかもしれない人物だ。そもそも、誰かに皮を剥がされそうになるような、そんな人生を送っている人間なのだから、あまり追求したくはない。
それに、一応これでも、有名な漫画家の先生だ。
露伴が処置室に姿を消すまで、その場の視線は露伴の背中に注がれたままだった。
なんだか珍しい物を見てしまった。
騒ぎが収まったので、高校生は売店の方へ移動することにした。
その途中。
「あの漫画家の先生、この前も運ばれて来てたよな……?」
「ああ、高校生の不良に担ぎ込まれた時か。あの時も、高校生があやふやなこと言ってたんだよ。日射病だとか栄養失調だとか、うまく説明できなくなって、終いには敵に養分抜かれたとか……」
「二ヶ月くらい前に、全身打撲でボロボロだったのも、あの先生だろ?」
「家で机の下敷きになったってさ。ま、嘘だろうけど」
すれ違い様に聞いてしまった話に、高校生は再び露伴の消えて行った方を振り返った。勿論、露伴はまだ出て来ないが。
どうやらこれまでの、漫画家という職業に対する認識を改めなければならないらしい。
一日中家に籠もって、ぶつぶつ言いながらインクとトーンまみれになっている。それが漫画家だと思っていたのだが。
想像以上に過酷で、思いも寄らない程危険に満ちた、大変な職業。それが漫画家だ。
そして、如何なる場合でも本当の理由を明かせないくらい、何か複雑な事情を抱えた孤高の職業なのだと。
入院中の高校生は、その後、生まれて初めて漫画家にファンレターを書いた。
その手紙の最後は、“先生がどれだけ苦労して漫画を描いているのかを知って、ますますファンになりました”で締められていた。
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