広瀬康一は、犬の散歩中、たまたま通りかかったオーソンの前で、鈴美と立ち話をしていた。
 ふと、前から気になっていたことを思い出し、慎重に辺りに目を配る。そして周囲に誰もいないことを確認した上で、鈴美に囁いた。
「あの……露伴先生と鈴美さんって、昔からの知り合いなんですよね……?」
 露伴はああいう人間なので、あまり自分のことは話したがらない。鈴美と何か因縁があるらしい、ということはわかっているのだが、具体的にどういう関係なのか、聞くに聞けずにいた。
 が、鈴美は意味深に笑っただけだった。
「露伴ちゃんに聞けば、きっと教えてくれるわ」
 事の真相は、もしかしたら一生わからずに終わるかもしれない。
 仕方がないので康一は、もう一つの疑問を口にする。
「じゃあ……鈴美さんは知ってますよね? 露伴先生って、あれ、本名なんですか?」


 漫画家岸辺露伴。
 広く知れ渡ったこの名前。町中の誰もが彼を“露伴先生”と呼ぶ。康一もその一人だ。
 だが、この“露伴”というのが果たして本名なのかどうかは、誰も知らない。
 康一も、この呼称を定着させてしまったが、ペンネームなのか本名なのか、よくわからないままに呼んでしまっている。
 露伴といえば、作家の幸田露伴を思い浮かべる。あの岸辺露伴が、そういうところで他人にあやかってペンネームを付ける、とは思えないので、やはり本名なのか。
 そういう名前を付ける親も、まあ世の中にはいるだろうし。
 鈴美も“露伴ちゃん”と呼んでいるのだから、やはりそうなのか。
「今更って感じですよね……でも、なんか聞きそびれちゃって……」
 というより、そういう質問をすると「侮辱するつもりか!?」と怒鳴られそうだからだ。
 康一の遠慮がちな問いに、鈴美はきょとんとしたままだったが、すぐに康一の背後を指し示した。
「そんなこと、本人に聞けばすぐわかるのに」
「え?」
 指の示す方角を振り返り、康一はぎくりとした。
「ろ、ろは……」
 間が悪すぎる。
 康一の背後には、いつからか露伴が立っていた。


 庭掃除を黙々とこなしても、それでも落ち着かなかった。
 どうしても、目が焼けた部分に行ってしまう。ならば見えないところまで移動しよう。
 ということで、露伴はスケッチブック片手にふらふらと出て来たのだが。
 コンビニの前で幽霊と立ち話をしている康一を見つけ、近寄ってみれば、話題は露伴のこと。
 どんな話をされているのか、興味半分真後ろまで接近してみれば、露伴の名前を問題にしている。
「あっいや、その……ですね、べっ、別に露伴先生がその……っ」
 両手を振り回し、何か必死で言い訳を考えているらしい康一を睨みつけた。
「ふぅん。そうか。君は今まで、意味もわからずに僕のことを呼んでいたのか」
 彼等の言う“露伴先生”というのは、本当の親しみを込めた呼び方ではなく、ただの便宜的な愛称だったのか。
 知らされた事実に、露伴はどこからともなく更なる怒りが込み上げてくるのを感じた。
 別に、この町の連中に馴れ馴れしくされて嬉しいわけではない。どちらかといえば鬱陶しいくらいだが、あの笑顔が実はそんな薄っぺらな物だったかと思うと、なんだか妙に許せないものがある。
 ただでさえ今は機嫌が悪いんだ。これ以上怒らせないでくれ。
 あんまり不愉快なことを言われると、その部分のページを破り捨てたくなるな。
 かなり本気でそう思い始める。
 そんな露伴の心情を察したのか、康一は鈴美のそばに擦り寄った。根拠はないが、助けてくれるとすれば鈴美だけだ。
 露伴は露伴で、鈴美の姿は殆ど目に入っていない。
 どうしてくれようか。
 露伴についての正しい知識を書き込もうか、それとも「本名か筆名か?」というふざけた疑問の部分を消そうか。
「ろっ、ろっ……」
「康一くん、鋏を持っているか?」
「は、はさみ……?」
 忘れていたわけではないが、この人は怖い人だった。何をされてもおかしくない、本気の目をした露伴を前に動揺する康一は、突然言われた事が咄嗟に理解できず聞き返した。
「もっ持ってません……けど、あの……何に……使うんでしょうか……?」
「決まってるだろ。君のその、人を小馬鹿にした疑問。その記事だけ切り抜くんだよ」
「………」
「もうページは破らないって言っただろう? 確かに一枚丸ごと取り除く必要はない。そこだけでいいんだ。多分、小さな囲み記事だろうな。さて、どこかに鋏は売ってないかな?」
 冗談で言っているのではない。
 そういえば。康一は先程電話した時のあの応対を思い出した。
 今日は物凄く機嫌が悪そうだ。
 本気で、切り取る。この人、本当にやる。
 涼しい顔で金物屋を探す露伴を見上げ、康一は鈴美の腕を掴んだ。
「れっ……れれ鈴美さんっ……どっどうしたらっ……」
 しかし鈴美は、露伴の悪い冗談だとしか思っていなかった。
「康一くん、露伴ちゃんが意地悪なのはいつものことよ。でも謝っておいた方がいいかしら?」
「……謝ったくらいで許してくれるように見えますか?」
 鈴美は笑顔で頷く。
 しかし康一にはそうは思えない。
 多分、今日はだめだ。今日は何を言ってもきっとだめだ。
 明日にしよう。明日謝ろう。明日なら、もしかしたら機嫌も良くなって、こんなことくらい笑って許してくれるかもしれない。
 だから。
 今日は、逃げた方がいい。
 しかし、露伴はそう甘くなかった。
「康一くん、僕はちょっと鋏を買ってくるから、ここから動かないように」
 言い終わるより早く、康一の手の甲がぺろりと紙になって剥け、そこに『露伴が戻るまでここから動かない』と書かれてしまっていた。
 もう間違いない。
 本になった顔から、記事一つ切り抜かれる。
 本気だ。
 本気だ。
 鋏を探しに行く露伴の背中を目で追いながら、康一は指一本動かせなくなった状態で、軽いパニックに陥りつつあった。


 足許では康一のポリスが、幽霊犬のアーノルドに向かって唸り続けていた。
 鈴美はその二匹の間に入る方が重要だと判断したらしく、康一を助けもしなければ、露伴を止めることさえしてくれず、その場に屈み込むと二匹の頭に手を置いた。

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