嫌な予感がした。
机の前で既に一時間。右手は全く動かない。
確かにここのところ、火事になったりトンネルで死にかけたりと、色々とあった。
だがそんなことはあくまでも個人的な問題であって、仕事に支障を来してもいいような出来事ではない。ないはずなのだが。
「まさかこの岸辺露伴が……」
様々なストーリーや台詞を思い浮かべる。考えれば多少は思いつく。
が。
どれもあまり面白くないような気がする。
そこらの素人でも考えつきそうな、つまらない話ばかりだ。
いつものような、読者をあっと言わせる、自画自賛できる素晴らしい物語ではない。
どうも調子が悪い。疲れているのかもしれない。昨夜はちゃんと眠ったか?
食事はどうだったろう。
いつも通りだ。
何も悪くはない。
ということはやはり。
いや、そんなことはありえない。
この岸辺露伴に限って、そこらの三流漫画家のような状態に陥るはずがない。
絶対に違う。
何か理由があって、今日は筆が乗らない。ただそれだけのはずだ。
有り得ないんだ、この露伴が……。
そんな時に電話が鳴り響いた。
仕事中は電話になど出たくないのだが、生憎今は中断しているも同然だったので、弾みで受話器を取る。
しかし、普通に誰かと話をするような気分にはなれなかった。ので。
「うるさい、今はそれどころじゃない。明日にしてくれ」
相手が誰かも確認せずに、一方的に言い放ちそのまま受話器を叩き付けるように戻す。
「この露伴に限って……」
また呟き、露伴は再び真っ白な原稿に目を落とした。
『うるさい、今はそれどころじゃない。明日にしてくれ』
ブツリと切られた電話。
受話器を持ったまま、康一はしばらく動けなかった。
夏休み前にバイトをさせてもらいたかったので、その件で電話をしたのだが、どうやら今はタイミングが悪かったらしい。
「機嫌悪そうだなあ……」
明日にしろ、と言うのだから明日もう一度かけ直そう。
康一は持て余したこの時間を、犬の散歩に充てることにした。
もう一度よく、ここ数日を思い返してみる。
絶対、そこに原因があるはずなのだから。
まず、突然仗助が一人でやって来て、見え透いたおべっかを使ったかと思うと頭を下げてチンチロリンをしてくれと言い出した。
その直前までは問題はなかった。いつもの通り、のんびりと寛いでいたのだから。
やはりあの勝負に乗ったのが間違いだったのか。
腹立たしいことの連続だった。終わってみれば、三万円は巻き上げられなかったし、火事にはなって貴重な家具も焼けた。あの後、玉美が何か言っていたようだったが、煩わしいので追い返した。
しばらくは玉美の顔も見たくない。あの顔を見たら、また不愉快な一日を思い出しそうだ。
結局その晩は、苛ついて仕事などしている気分ではなかったので、何もせずに眠った。
翌日は気晴らしにと、バスで遠出したものの、何もせぬままトンネルで余計な物を見つけてしまい、最終的には仗助の手を借りて病院へ。
取られた分は補給できたが、精神的な疲労もあって家に帰るなりベッドに倒れ込んだ。
二日続けて仕事から離れていたのがまずかったのか。
いや、その程度ならば関係ない。
いつも露伴は週休二日制だ。仕事は五日で終わり、後は適当に遊んで過ごすのだから。
リズムが狂ったせいか。
五日働いて二日休む、というローテーションを崩してしまったせいで、今日は乗りが悪いのか。
そうとも限らない。
長期で旅行に出ることもあるし、都合によって一週間以上続けて仕事に入っていたこともある。
いやしかし。
他に思い当たらない。
いっそ、一年中、この机の前に座っていたらどうだろう。どこにも行かず誰とも会わず。
そうすれば、こんな三流漫画家のような悩みを抱くことなど、絶対にないかもしれない。
いや。それはだめだ。
家の中に籠もっているだけではリアリティはどんどん希薄になっていく。
それはだめだ。
気づけば、家中をうろうろ歩き回っていた。
時間が経てば経つほど、落ち着かなくなってきた。
こうやってそればかり考えているから、余計に悪いのかもしれない。何か違うことでもしていれば、突然いつものように傑作が思い浮かぶかもしれない。
といっても。
火事の後始末をした際に、いろいろと家の中を片付けてしまったので、特にすべきことがない。
こういう時こそ、何かどうでもいい物を思い切り床に叩き付けて憂さ晴らしをしてみたいのだが、気の利いた物がない。
後先考えずに黙々と掃除をしてしまったのは失敗だったな。
キッチンで何か小手先の作業をする、というのも違う。
スケッチブック片手に町中を徘徊する、というのも違う。
何だ? 何がいい?
また机の前に戻ってしまった。
真っ白な原稿が信じられない程大きく見える。
あの紙はもっと小さかったような気がする。随分と今日はでかいんじゃないか? それも気のせいか。
とにかく、今は漫画のことは考えるべきではない。
何か別の、とんでもなくつまらないことをすべきなんだ。
数時間後。
露伴の家の近所に住む、善良な町の人々は不可解な物を目にする。
挨拶すら滅多にしない『気難しい漫画家の先生』が、箒片手に庭掃除に励んでいる姿を。
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