誰かに名を呼ばれたような気がした。
重い瞼を開くと、そこには、あまり見たくない顔があった。
「……仗助?」
ぴんぴんしているところを見ると、無事に終わったらしい。
「露伴! まだ生きてるな!?」
死んでいたら、目を開けたり喋ったりしないだろう。そう思ったが、言いたいこと全てを口に出せる程体力は残っていない。
だいたい、自分の中に僅かに残っていた力は、仗助に命令を書き込むために使われてしまっていた。
こいつの手を借りるのは死んでも嫌だったが、今は他に方法がない。
無理に起き上がろうとした露伴に肩を貸し、仗助はトンネルの出口へ向かって歩き出す。
「まさか、おまえが俺を助けてくれるとは思わなかったぜ、露伴」
なんだか、口調が柔らかい。
なんなんだ、こいつの妙な馴れ馴れしさは。
「色々あったけどよー、全部水に流そうぜ。俺達、仲間なんだしよー」
咄嗟に露伴は今後のことを考えた。
さっきは、つい成り行きで助けてしまったが、別にこれから先、こいつと親しく付き合う気はこれっぽっちも持ち合わせていない。
だいたい、この岸辺露伴が、いざとなったら仲間の為に命も懸ける熱い男だと思われるのは心外だ。そういう目で見て欲しくない。
今訂正しなければ、露伴という人間に対する評価が百八十度転換してしまう。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
「……そうだな、おまえは人が折角逃げろと言ったのに、それを無視するような馬鹿だったが、それも引っくるめて全部、洗い流して欲しいようだな」
「あ?」
今の言葉を一気に言うだけで、露伴の身体からは力が抜けて行く。
密着している関係上、仗助にもそれは伝わる。
「おいおい露伴、あんまり喋るんじゃねえよ。無理すんなって」
確かに、今は仗助の手を借りなければ歩けないような状態だ。助けて貰っていながら偉そうなことは言えない。
が、露伴はその辺りの常識を無視することにした。
「何の為に僕が逃げろと言ったか、全くわかっていないようだな? 貴様とこんなトンネルなんかで心中したくないからに決まっているだろう!」
「ろ、露伴……?」
叫んだせいで、余計に足がふらついた。そしてその分、仗助に更にもたれ掛からなければならなかった。
トンネルの出口に、露伴のバイクを置いていた。
病院のエレベーターで壊してしまったのだが、それを再び元通りにしてここまで乗って来たものだ。
「あのよー、先生。なんか怒ってるとこ悪いんだけどよー」
バイクの前に立ち止まったまま、仗助は露伴に話しかける。
「これに乗って帰るのは無理だろ? 俺、病院まで送って行こうか? 点滴でも打って貰えば治るみてーだしよー」
「………」
返事がない。
そっと顔を覗き込むと、また意識を失ってしまったらしい。
このまま病院に担ぎ込むしかないのか。
しかし、それもどうだろう。大の男が貧血で倒れて、高校生に助けられて病院に運ばれた、としか見えない。それはそれでまた露伴が怒り出すかもしれない。
事実、露伴の警告を無視し、無謀にも飛び込んだのは自分だ。その点は文句を言われても仕方がないが、結果的には二人とも生還したのだから、いつまでもそんな小さなことに拘る必要はないと思われるのだが。
岸辺露伴だからな……。
ねちねちと厭味を言われるのは当たり前だったかもしれない。
だが、あの時、自分が殺されるかもしれない状況だったというのに、露伴は助けてくれた。あの友情はきっと本物だ。
なんとかなるだろう。
仗助はバイクを邪魔にならない位置に寄せ、タクシーを待った。
乗り物に揺られているような、そんな微妙な振動を、露伴は感じていた。
隣には確かに誰かがいる。
目を開けて状況を把握することもできたが、今は少し眠りたかった。
細かな揺れは、まるで波の中のように心地良かった。
微かに耳に入る音は、さざ波とは明らかに違うが、構わなかった。
浅瀬で素足だけ水につけている時も、今と同じように、爪先から冷えて行くような不快な感覚を味わった。
そういえば、最近海に行っていない。
仕事にかまけて、取材の対象にならない場所には近寄らなかったせいだ。
この時期の海は人が多過ぎる。海水浴をする人間しか喜ばない海だ。
随分昔、何処か静かな海に行ったのを覚えている。
浅い海は波も穏やかで、泳ぐには少々物足りなかった。
泳いでも泳いでも、何故か沖には到達できないのではないかと不安になった。だがそれはただの気のせいで、振り返れば確かに陸は遠くなっていて、馬鹿な感傷に浸ってしまったと可笑しくなった。
海は嫌いだ。
水がまとわりついて来るようで、自分の正確な位置が全く掴めなくて、だから嫌いだ。
今も、まるでそんな遠浅にいるようで不快だった。
自分は何処にいるのだろう。
車に乗せられているのかもしれない。だがそれはあくまでも想像であって、確証はない。
車だとして、どこを走ってどこへ向かっているのか。
沖を目指しているつもりでも、何かの弾みで見当違いな方向へ進んでしまう。そしてその事実にすらも気づかない。そんな感覚。
それにしても。
どうして自分は、仗助を助けてしまったのだろう。
他人がどうなろうと知ったことではないはずなのに。
この町に来てから、露伴のアイデンティティーは異常を来しているような気がする。
言うなれば、露伴の自我そのものが、波の中で行く先を見失っているようだった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
「……海の中……」
「へ? 何か言いました? 露伴先生?」
仗助は慌てて傍らの露伴を見遣ったが、相変わらず露伴の瞼は閉じられたまま、規則正しい寝息だけが続く。
「寝言かよ……」
露伴は知らなかったが、仗助も仗助なりに責任を感じていたのだ。
もし最初に、バスで露伴の話を真剣に聞いていたら、と。
露伴を一人でトンネルに行かせなければ、状況は違っていたのではないか、と。
「お客さん、連れの人、大丈夫かい?」
「えっ、ああ……日射病かなんかじゃないスかぁ〜? えーと、ほら、最近あんまり飯食ってなかったとか、そういう感じで……多分、平気っスよ」
まさか、スタンド攻撃されて養分を抜かれました、と言うわけにはいかない。
病院に着くまでに、何かもっともらしい理由を考えなければならない。
それよりも問題は、このタクシー代だ。立て替えるのはいいが、後から露伴は払ってくれるだろうか。財布の中身といろいろ相談しながら、仗助は露伴が目を覚ました時のことを考え、思わず溜め息をついた。
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