部屋の幾つかは、使い物にならない。
虫眼鏡一つで、これほどの惨事が引き起こされるとは知らなかった。
火はやっと消し止められ、傍らには玉美が立っている。
「先生。怪我もしてない。二百万もある。家は半分は無事。そんなに気を落とさないで」
この男の場合、心の底から露伴を気遣っているとは思えなかったが、今は成り行き上からか、そう言って肩に手をやる。
当の露伴は、そんな玉美の慰めなど耳に入っていなかったが。
家が焼けたことや、仗助との勝負がこれでうやむやになってしまったこともムカつくが、それ以上に腹立たしい事が一つあった。
燃え盛る炎。焼け落ちて行く柱、家具。これだけ至近距離でそれを見ていながら、何一つスケッチブックに描き写していなかった。
手元に無かったのだから仕方がないとも言えただろうが、紙など家中どこにでもある。取りに行くことくらい簡単だったはずだ。
あの瞬間は、スケッチどころではなかった。
仗助のイカサマの方に気を取られていたせいで、折角の良いシーンを捉え損なった。
仗助がつまらないイカサマを仕掛けたせいだ。
火事一回分、無駄にしてしまった。
仗助のせいで!
「……許せん。仗助のクソったれが……」
思わず漏れた呟きを聞いてしまった玉美は、これだけの損害を与えてしまったのだから恨まれて当然だと納得し、再び露伴を慰め始めた。
「わかりますよー先生。そうでしょう、そうでしょう。……ところで、報酬の方は?」
気づけば日は落ちていた。
あまり食欲はなかったが、食べないというわけにもいかない。
幸い仕事部屋は無事だったのだから、明日もまた仕事ができる。そして万全の体調を整えて原稿に向かうためにも、平常通りの生活をしなければならない。
だが、何か作る気にもなれなかった。
時間が経つにつれ、露伴の怒りは細かな点にまで行き届き始めていたので。
まず燃えた箇所。
家の何処に損傷を受けても同じだけの被害は出ただろうが、焼け落ちた部屋には、二百五十万の家具も置かれていたのだ。『プリティ・ウーマン』で使われていたのと同じ家具が。
あれはかなり気に入っていたというのに。
まだ住み始めて半年も経っていないが、それなりに愛着を抱き始めていた家が、露伴が自ら足を運んで選び抜いた家具が、仗助のせいで見る影もなくなってしまった。
仗助のイカサマもわからないままだ。今考えてもやはりわからない。
奴から三万円を巻き上げられなかった以上、あのチンチロリンには何の楽しみも無かった。
思い出せば思い出す程苛々してくる。
家の中の惨状が目に入るのも良くないのかもしれない。
露伴は気分転換も兼ね、外に出た。
夕食はどうしよう。
あのずれたイタリア人の店に行くような気分ではない。
駅前まで出れば店はいくらでもあるが、そこまで行くのもあまり気が進まない。
近場の商店街で何か見繕うか。
動揺していても、スケッチブックを持って行くのは忘れない。
いつも通り肩に下げ、露伴は夕食を摂れそうな店を探した。
しかし、滅入っているせいか、どんなレストランも入る気になれない。テーブルについている客達の笑顔が窓ガラス越しに見えたりすると、それだけで不愉快になる。
そんな連中の顔を見ながら何か食べるなど、想像するだけで気分が悪くなって来た。
やはり何か買って、おとなしく家に戻るべきか。
そんなことを考えていた時、ちょうど、一軒の惣菜屋が目に留まる。
小さな店だから、今まで気づかなかった。
近寄ってみると、小さな構えの割に種類も豊富で、美味そうに見えた。
ここにしておくか。
適当に注文し始めた時になって、不意に鈴美の顔が頭に浮かぶ。
たまたまここが、あの小道に近いせいかもしれない。
元来幽霊というものは、触れないはずなのだ。魂だけなのだから。それがどうして彼女とその愛犬は、実体を持っているように感じるのか、露伴には未だにそれが謎だ。
こちらから身体に触れることもできる。彼女が物を掴むこともできる。絶対におかしい。
だが今は、そんな不可思議な現象も、考えようによっては好都合かもしれなかった。
露伴は落ち着いて、店主に追加注文をする。
近くの惣菜屋の名の入った袋を提げた露伴が小道に入った途端、アーノルドが擦り寄って来た。
昔から露伴にも懐いていたのだろうか。身に覚えがないことだけに、この犬の挙動にはいつまで経っても慣れそうにない。
「露伴ちゃん」
どう見ても、自分より年下の小娘のような笑顔で近寄って来る鈴美。
ここまで来ておいて今更だが、露伴はどう切り出していいのかわからなかった。
自分の手にあるのは、二人と一匹分の弁当。
鈴美と仲良く夕飯を突こうというわけではない。
一人で食べるのが寂しいから付き合ってもらおうというつもりでもない。
ただ、たまたま思い出したから、ただの気紛れで買ってしまったのだ。
こんなものを持って来て、本当に鈴美がそれを食べるのかどうか知らないが、もし食べないにしても、それは仏前に供えるのと同じような感覚でいいと思われる。
それにしても、どう切り出すか。これはかなり重要な問題だ。
言い方を誤れば、露伴が寂しがりな感傷屋だと思われてしまう。それだけは避けたい。
理由なんかない、ただちょっと思いついて、それで来ただけで、他意はないんだ。
言い淀む露伴を、鈴美は大きな瞳で見上げる。
軽い調子で言えばいい。
あまり深く考えさせなければそれでいい。
「今夜の夕食は外で食べてみたくなったんだ。ここは他に人も来ないことだし、お邪魔させてもらうよ。ついでだから君達の分も買って来た」
言ってしまってから、随分言い訳がましい台詞だったと思ったが、もう取り返しはつかない。
きょとんとしたままの鈴美をできるだけ見ないようにしながら、露伴はこのまま押し切るための仏頂面をわざと作った。
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