最後の一枚を描き終えるのとほぼ同時に、机の右手に置かれたFAXが動き出した。
 番号を知っているのは、編集部の人間くらいだったが、この時期に届けられるべき何かがあるとは思えなかった露伴は、何事かと顔を上げる。
 吐き出された紙は一枚。
 文章らしき物が綴られているのが見える。
 手を伸ばし、露伴はまだ温かいそれを取った。


『ご無沙汰しております。
 来年まで、この手をこのままにしてはおけませんでした。
 今、爪を切りました。
 約束の小指の爪を。
 ご報告だけさせていただきます』


「……僕宛、ではないな」
 どこかの間抜けが番号を間違えたか。
 わざわざ知らせてやるなど面倒だ。
 書かれている内容も、どうでも良さそうだ。放っておいて構わないだろう。
 が。
 露伴はしばらくそのFAXを見つめていた。
 なんだかわからないことが書かれているだけなのだが、その“わからない”という事実が気に食わない。
 ついつい真剣に見入ってしまう。


 二人の間で何らかの約束が交わされていた、これははっきりとわかる。
 その証しに、何故か小指の爪を切らない、という約束をしていたようだ。この辺りは少々おかしいが、書かれているのだから鵜呑みにするしかない。
「年が明けるまで半年以上はあるぞ」
 手か足か知らないが、どちらにせよ、そんなに伸ばし放題でいられるわけがないだろうに。
 だがこれを書いた人物は、切らないつもりで約束を交わしたのだ。そして今、物理的な理由ではない何かによって、爪を切る決意をした、というところか。
「無謀だな。そんな契約、する方がどうかしてるんじゃないか?」
 女の文字だ。
 それも、年配の落ち着いた感じの女性が書くような文字。
 しかし、教養のある女性にしては、時候の挨拶も何もない、礼儀を欠いた手紙。
 そもそもFAXで済ませてしまうようなタイプには見えないのだが。
 他人の事情が、わからなければわからない程、露伴は追求したくなる。
 紙の上部に小さく載せられている発信者の番号。ここから、この女性の正体を探ることは可能だ。
 どうする?
 机の上に乗っているのは、終えられたばかりの今週分の仕事。
 時間は十分にある。
「爪、ね……」
 なんだか色っぽい話じゃないか。
 決めた。


 立ち上がりかけたその時、再びFAXが動き出す。
 今度は何だ?
 露伴宛に送られて来るものなど、今日は絶対にない。また間違いか?
 ゆっくりと排出される紙を眺めているだけでもどかしい。
 引きちぎらんばかりの勢いで紙を手元に引き寄せる。
「……?」
 先程と同じ人物からだった。


『先刻は失礼いたしました。
 どなた様か存じませんが、ご無礼お許し下さい。
 同好の友の間で交わしております、謎かけ遊びに過ぎませんが、
 貴方様が不審に思われてはと訂正の文を差し上げることにいたしました。
 無用のお気遣いをなさいませんように』


 口調は丁寧だが、かなり慇懃な態度だ。
 まるで耳元でこの内容を言われたかのように、露伴は苛立っていた。
 このフォローはあからさまにおかしい。
 誤魔化しているとしか思えない。
 知られたくない、深刻な事情があるに違いない。
 つまらないことだ、とわざわざ言ってくること自体がおかしい。
「つまり、重大な秘密があるわけだ」
 二通目のおかげで、露伴はますます夢中になった。
 どんな手を使ってでも、この女がどこの誰かを調べ、そして直接本にして読んでやる。
 この決意は紛れもない犯罪行為なのだが、それを止める人間は一人もいない。露伴自身には、歯止めをかけるべき自制心が欠けているのだから、後はなるようにしかならないはずだ。


 数分後。
 露伴の家の真向かいの住人は、鬼気迫る表情で出掛ける彼の姿を目撃する。
 外出の際、確かに周囲に配る視線は鋭かったが、割に飄々としていてのんびりと歩いているようにも見える露伴が、今日に限って、どういうわけか異様なまでにぴりぴりして見えた。
 この主婦はたまたま友人と電話中だったのだが、窓から見えてしまったその姿に思わず絶句し、慌てて電話の向こうの相手にそれを伝えた。
「ちょっとちょっと、前に言ったでしょ! うちの向かいに偉い漫画家の先生が住んでるって。そうそう、その若くてちょっと格好良い男! 今、すっごく危ない感じで出て行ったんだけど、あれかしら。スランプ? 大変なのねぇ、ああいう仕事も」
 電話の相手が何か一言二言返す。
 主婦は恥じらいもなく大口を開けて笑った。
「あら、ごめんなさい! 脱線しちゃった! ねえねえ、どうだった? さっきの、『爪』の話。ちょっと意味深だったでしょ? これ、昨夜一晩中考えて作ったのよ! どうどう? 面白い?」

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