ジャンケン小僧のお陰で、無駄に冷や汗をかかされた露伴が、精神的な疲労でふらつきながら家に帰り着いた時だった。
「露伴先生! 良かったぁ、やっと帰って来た!」
玄関先に頬杖をついてぼんやりと座り込んでいた康一が、一気に笑顔で両手を振り回している。
自分でもここまで疲れるとは思っていなかった露伴は、とにかく仕事よりもまず少し横になりたいと、そればかりを考えながら歩いて来た。やっと自宅が見えて来て、ほっと一息吐いた矢先の、この出迎え。
今日はもう君の相手なんかしていられないから帰ってくれ。そう言いたいのだが、何とも形容しがたい康一の純朴な瞳を真っ向から受けてしまうと、五分か十分くらいならいいか、という気にさせられてしまう。
「ちょっと相談したいことがあるんですけど、いいですか?」
「十五分だ。僕にも都合があるんでね、十五分だけなら聞いてやってもいいよ」
事実、十五分経過した段階でまだ話が終わっていなくても、露伴は康一を追い出そうと決めていた。
「夏休みに入るまで、あと一ヶ月もないですよね。それでちょっと問題が出て来ちゃったんですよ」
夏休み。
露伴は眉を片方だけ吊り上げて反応する。
久しぶりに聞く言葉だ。いつから始まるんだった? 七月の半ばか? いや、下旬? 上旬?
そんな生活から遠ざかって久しい露伴には、咄嗟にそれがいつ頃のことなのか思い出せない。
「僕、生まれて初めて彼女のいる夏休みを迎えちゃうんですよー? それだけならまだしも、一緒に遊ぼうって友達も今年は沢山できちゃって、それで困ってるんです……」
それが羨ましい悩みなのか、下らない悩みなのか、露伴はどちらともつかない顔で康一の話を聞いている。
ソファに預けた背は、油断するとそのまま頭共々沈んで行きそうだった。康一側から自然に見える位置に片手を回し、だらしのない座り方にならないよう気を遣う。
「由花子さんは、二人きりで映画とか食事とかプールとか海とか旅行とか言うんですけど……」
あの、黙っていれば美人だが、性格的に難のある特殊な女子高生。露伴はあの印象的な長い髪を思い浮かべた。まだ現物は見たことがないが、あれが動き回って人の身体を締め付けたりするらしい。
「行けばいいじゃないか。彼女が行きたがっているのを拒否すると、後が怖いんじゃないのかい、康一くん?」
他人事だとしか思っていないような軽い口振り。
しかし康一も、もうある程度、露伴の話し方の癖に慣らされて来ているので、それほど気にしていないようだった。
「ま、まあ僕も、映画とか海くらいなら健全だからいいと思うんですけど。ただ、由花子さんの場合は、二学期が始まるまで毎日何処かに行こうってことなんですよ」
「……毎日行けばいいだろ?」
好きで付き合っている二人なのだろうから、毎日一緒にいても苦痛にはならないはずだ。
「毎日は無理ですよ! 仗助くんや億泰くんとも何処かに行きたいって話が出てるし、それに……」
興奮のあまり、椅子から立ち上がって語り始める康一の姿に、露伴は一つあることを思い出した。
「……“そんなに金が続かない”、だろ?」
「そ、そうです……」
由花子の後先考えない情熱は、時々金の使い方も間違えさせるらしい。
どこからその資金が出ているのか不明だが、別荘に康一を閉じ込めた時に登場した数々の品や、エステにつぎ込んだ高校生らしからぬ大金等、事が康一絡みになると尽きることを知らぬようだった。
康一にもプライドがあるから、デート費用をいつもいつも由花子に負担させるのは嫌だ。
かといって無い袖はどんなことをしても振れない。
仗助達との付き合いは、当然ワリカンだ。
どう考えても、由花子の希望を叶えることは不可能。
康一が何を悩んでいるのかはよくわかった。
もっともこういったことは、しどろもどろの説明を受けるよりも、露伴が自分で読んだ方がよほど早くて正確なのだが、今日はそんな気力が湧かない。
というよりも、ヘブンズ・ドアーを行使するための力を、今露伴は、眠気を抑え、尚かつ康一にそれを気づかれないように振る舞うことに割いていたので、使うに使えなかった。
ちらりと見遣った時計。あれから七分経過。
まずいな。
このままだと、椅子に座ったまま居眠りをするかもしれない。
この岸辺露伴が、『他人の前でついうつらうつらしてしまいました』などという行為をするわけがない。なんとしてもここは抑えなければ。
「……『毎日会うよりも、何日か置きに会った方がいい。会えない時間が、気持ちを盛り上げてくれる。そんなロマンチックな夏休みにしたい』……とでも何でも、適当なことが言えるだろう?」
「うわーっ、僕にそんなこと言わせる気ですか!?」
この露伴が勧めていることが恥ずかしいとでも言うのか?
「この岸辺露伴が口にすれば歯の浮くような台詞だろうが、君は違う! 君なら何もおかしなことはない!」
「そ、そうかなぁ……?」
露伴の勢いに押されたのか、康一は少し照れ笑いをする。まんざらでもないらしい。
多分、由花子はそういうクサい演出に弱いはずだ。
ソファのスプリングが心地よい。露伴はもう限界だと感じていた。
「後は金だろ? 僕のところでバイトに使ってやってもいいぜ」
もう何でもいい。早く康一に帰ってもらいたい。寝顔を見られるのだけは勘弁だ。
「え? でも先生、アシスタントは使わない主義じゃ……?」
「何も、原稿手伝うだけがバイトじゃない。取材の時の助手や、資料集めとかの雑用があるだろ? 夏休み前に、二、三回使ってやるよ。後から連絡する。それでいいだろう?」
夏休み前、と言ったものの、いつから夏休みなのか、露伴は全くわかっていない。しかし、そんな細かなことは今この場で確認しておかなければならないような重要事項ではない。
とにかく早く。
「決まりだ。……さっさとクソッたれ仗助のところに行って、夏休みの計画を立てて来るんだね。幾ら必要になるかを割り出してくれ。僕の方でそれに見合うだけの仕事を用意させてもらう」
露伴が片手をしっしっと振ったのを合図に、康一は玄関に向かって駆け出していた。
「ありがとうございます、先生!」
なんとかなるかもしれない、という明るい見通しが、康一の行動を素早くさせているのだろう。
珍しくあっさりと帰って行った。いつもなら場の空気を読み、丁寧に挨拶をしてからでなければ出て行かないというのに。
だが今、その慌ただしさは好都合だった。
康一の気配が完全に家の中から消えると、露伴は頭をソファに預けた。
そのままずるずると身体を横たえる。
壁の時計は?
十一分経過。
確認してしまうと妙におかしかった。十五分と約束しておきながら、それだけの時間も持たせられなかった。この岸辺露伴ともあろう者が。
頼むから、一時間は誰も邪魔をするなよ。
露伴はゆっくりと瞼を閉じた。
すぐに、ソファからは寝息が聞こえ始める。が、それを耳にする者は誰一人いない。
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