夕食時、露伴は霊園の近くまで来ていた。
熱は下がったものの、夏風邪は尾を引く。整いきらぬ体調のままでいつまでもいたのでは、仕事に差し支える。
そうは思っていても、未だに食欲は戻らない。
だがこの店なら、露伴の状態に合わせた料理を用意してくれるだろう。
イタリアンという気分ではなかったため、足取りはひどく重かったのだが、露伴はなんとか店の前まで辿り着けた。
と、どういうわけか、店主であるトニオ・トラサルディーが外に出ていた。スーツ姿の青年と共に。客、には見えないが。
露伴が近付いて行くと、トニオはそれを目ざとく発見し、軽く会釈をした。
「お久しぶりデス。露伴サン。お食事ですネ?」
「ああ。頼む」
それを聞き、青年はトニオに挨拶をして去って行く。
「では、トラサルディーさん。詳しい見積は来週お持ちしますので」
「よろしくお願いしマス」
見積?
他人の経営に興味はなかったが、この店は別格だ。
これだけ便利な店が無くなったり移転したりしたら、幾分か都合が悪い。
「……改装でもするのかい?」
「いえ。お店の宣伝をしてもらうんデス。とても親切な方ですヨ」
その瞬間、露伴は嫌な予感がした。
こういう職人タイプは、往々にして騙されやすくできている。
詐欺じゃないのか?
「好奇心から尋ねるんだが、具体的にどんな宣伝を?」
「はい。ここに、掲示板をつけマス。電気で、文字を流すんデス」
日本語が時々不自由になるトニオは、様々な業界の専門用語には疎い。
露伴は、何かしらの営業をしている店の付けられた電光掲示板を思い浮かべた。
ああ、あれか。
とりあえず、とんでもない物を売りつけられたわけではなさそうだが。
しかし。
「余計なことかもしれないが、店の雰囲気には、合わないんじゃないのかい?」
「でも、日本のお店はみんな付けてるそうデス。これがあると、お客様の印象が良いと言われまシタ」
一概にそうとも言い切れない。
やはり騙されやすいんだ。
百戦錬磨の営業マンにうまいこと言われてその気になってしまったのか。
おおよそあれの値段は三十万前後と聞いている。後は毎日の電気代だ。
トラサルディーの一日の売り上げがどの程度かは知らないが、支払えないということはないだろう。
第一、他人の店だ。
トニオがやりたいのなら、それを止める必要はない。
ただ気になるのは、こんな霊園近くの人通りの少ない場所でそんなものを取り付けて、誰に見せるのかということだが。
いや。
他人の店だ。やはり余計な口出しはやめておこう。
「もう一つだけ聞いてみたいんだが、その手の営業は他には来ていないのかい?」
「色々な方がいらっしゃいマス。チラシを印刷してくれる人も、雑誌の取材も来ます」
「それ、全部受けてるのかい……?」
人が良すぎて、ついつい全部引き受けてしまっているのではなかろうか。
「いいえ。全部は無理デス。良い方だけですヨ」
いい人の基準がどの程度なのか、露伴には知るよしもない。
あまり質問攻めにすると、うんざりして、料理を出さないってこともあるな。
手っ取り早く読んでしまおうか。
またしても、プライバシーの侵害を平気でしようとする露伴だったが、幸い、何もされる前にトニオの方から説明を始める。
「世界中で修業して、世界中の人を見て来ました。料理人もお客様も。目を見れば、どんな人かすぐにわかりマス」
「目、ね……」
「ええ。この町の人は良い方ばかりデス。仗助サン、億泰サン、皆素晴らしい」
聞き慣れた名前が出たところで、露伴は意地の悪い質問を思いつく。
「へえ。じゃあ、僕はどうだい?」
まあ、客に向かって変なことは言えないだろうが。
もし適当な世辞でも言おうものなら、その場で本にして本音を読む気で、露伴はトニオを見上げた。
「露伴サンは、自分に正直な立派な方ですネ。ただちょっと、コミュニケーションが下手なだけですヨ」
この答えには、正直面食らった。
言っていいことと悪いことがあるだろうに。
これが僕じゃなかったら怒り出しているところだ。
本当のことを言われて怒る客が何人いるかは別として、露伴は少々不愉快になった。
まず褒めておいてから落とすのか、この男は。
商売人として、それはいかがなものか。
「他の客にもそういうことを言うのかい?」
「とんでもない。露伴サンには露伴サンへの答え方がありマス。お客様によって全部違います。料理と同じ、お客様次第デス」
笑顔を絶やさないこのイタリア人は、世界中を渡り歩いて来ただけあって、その表情を読ませない。露伴のように実際に本にでもして心の中を全部見ない限りは、そうそう簡単には崩せないタイプだった。
これはこれで面白いんだが。
凡庸な人間しかいない店で暇を潰すより、こういった男の店に来る方が有意義だ。次の作品に使えるかもしれない。
「先程の方は、自分の仕事に誇りを持っている目でした。だから、お願いすることにしまシタ」
なんとなくそれで納得しかけてしまった露伴だったが、頭の片隅では嘲笑していた。
なんだ、やっぱり人が良いだけじゃないか。経営上の利点など考えていない。これは営業に来る人間の熱意さえあれば、なんだって受けてしまうぞ。
もしかしたらこの店、実は新聞も何種類も取っているんじゃないだろうな。
一番わかりやすい事例を思い浮かべたが、さすがにそれは聞かないことにした。
この店には固定のファンがついている。
その程度のことでぐらつくようなことはないだろう。
「ところで、料理の方なんだが……」
「ああ、そうデシタ!」
立ち話に夢中になっていたらしいトニオは、露伴を店に招き入れ、その両手を眺めた。
「胃が弱ってますネ……風邪も治っていないデショウ?」
「あまり食欲がないんだが、食べないわけにはいかないと思ってね、頼むよ」
「はい、かしこまりマシタ」
トニオが厨房へ消え去った後、露伴は先程表で見た青年を思いだし、スケッチブックに軽く描いた。
目、ね。
トニオが太鼓判を押すその情熱的な目とやらを、是非今度拝ませてもらおう。
スケッチブックの中の青年は、目の部分だけが空白のままだった。
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