昨夜、思った以上に筆が乗ったせいだ。
 気づけばすっかり辺りは暗くなっていて、日付はとっくに変わっていた。
 完成させた原稿を前に、満たされた気持ちになって、つい、トニオ・トラサルディーから分けて貰ってあったワインに手をつけた。
 睡眠不足が続いていたから、グラス一杯でも十分だった。
 そのままベッドに倒れ込み、着替えせずに朝まで眠ってしまった。
 そして今、目覚めてみれば、軽い頭痛と止まらない咳。
 風邪だ。


 食欲はなかったが、無理矢理パンだけ口に入れ、なんとか薬を飲むことはできた。
 が。
 時間が経つにつれ、どんどん悪化している気がする。
 少しずつ気分が悪くなって来た。目眩もするし、もしかすると熱も出て来たのかもしれない。
 体温計は……なかったと思う。
 一瞬、病院に行こうかという思いも湧き上がったが、露伴はあっさりそれを打ち消した。
 ここから病院へ行くための行程を考えただけで嫌気がさしたからだ。
 この状態でバイクや車を運転するのは自殺行為。
 バスに揺られたらきっと酔う。乗っているうちに催して来て、人前でみっともないことになったらもう二度と外は歩けない。
 タクシーも多分酔う。運転手しかいないにしても、人数が少ないだけで、やはり他人の前でそんなことになるわけにはいかない。


 壁づたいになんとか階段を上り、露伴は寝室へ戻った。
 そのまま倒れ込む。
 横になると余計に気持ち悪い。
 かといって起き上がる気力もない。
 いっそ誰かに来てもらったら。そんな信じられない考えが頭を掠めた。
 有り得ない。
 この岸辺露伴が、ちょっと風邪を引いたくらいで他人に助けを求めるなど。
 誰かを頼るなど、有り得ない。
 そんな真似をするくらいなら、このままこじらせてここで干涸らびて死んだ方がまだましだ。
 軽く頭を動かしただけでも吐き気がする。せめて枕くらいは使いたかったのに。
 だめだ。
 このままではだめだ。
 だが、もう身動きすらままならない。
 丁度いいじゃないか。
 こんなにひどくなる前に誰かを呼べば良かったんだ、と後から人に言われても、もう腕一本動かせなくて誰も呼べなかったんだ、と答えられる。
 こんな時であっても理屈をこね続けていた露伴だったが、やがてその意識も遠ざかりつつあった。


 自分でも、薬のせいで眠っているのか、意識が混濁しているのか区別がつかない。
 電話が鳴っていたように思う。
 耳障りな音の連続だ。不快だったが、止めるためにはそれを受ける以外にない。
 止められない。今は動けないのだから。
 次に覚えていることは、誰かが来たということ。
 インターホン。
 誰かが玄関にいる。
 ここから起きあがれないんだ。いつもは居留守だが、今日はそうじゃない。出られない。
 その少し後、寝室に人の気配を感じた。
 そういえば玄関の鍵をかけていなかった。
 無断で人の家に上がり込むとは、どこの馬鹿者だ。誰が勝手に入っていいと言った。ましてやここは、露伴のプライベートルームだ。
 気配は、ベッドの脇に移動していた。見下ろされている感覚だけはあった。
 冗談じゃない。
 寝顔なんか見るな。こんなに弱った自分を見るな。
 誰だ、おまえは。
 侵入者は遠慮無く近付き、露伴を軽々と抱えると、ベッドの中にそっと降ろした。
 ああ、やっと枕と布団にありつけた。
 いやそうじゃない。そうじゃないぞ。
 不愉快な奴だ。人をそんなに簡単に持ち上げるな。情けないじゃないか。誰だ、おまえは。
 身体は少しも動かない。瞼すら開けない。この人物の正体を見極めることすら、できない。


 目が覚めた。
 傍らの時計は午後四時。
 頭はすっきりしている。まだ少しふらつくようだが、思ったほどひどくはならなかったらしい。
 ベッドから起き上がり、露伴は周囲を見回した。
 見渡す限りでは、自分の他にはだれもいない。
 階下に降りる。
 無人。
 玄関の鍵。施錠されている。よくよく考えてみれば、鍵はかけたままだったかもしれない。
 念のため鍵を探したところ、合い鍵も含め、全部家の中にある。
 誰かが鍵を持ち出してかけて帰ったということは無さそうだ。
 家中全て点検したが、誰かが来た形跡は全くない。
 ……夢、だったのか?
 幻覚か。
 どれほど考えても、あれが現実だったのかそうでなかったのか、区別することができない。朦朧したあの時の露伴では、何一つ断定できそうにない。
「夢だな、きっと」
 そう、夢だ。
 現実には誰も来ていない。
 ベッドに入ったのだって、多分無意識のうちに自力でしたのだろうし。
 第一、そんな親切な人物に心当たりはないし、何の痕跡も残さずに去るような控えめな知り合いもいない。昼間から尋ねて来てくれるような親しい友人もいない。
「下らない妄想だ」
 誰かに助けてもらいたいと、ほんの少しだけ思ってしまったから、そんな都合の良い夢を見てしまった。
 信じられない。
 この岸辺露伴が。
 殆ど良くなったようだったが、大事を取って露伴はまた寝室に戻った。
 もう少し眠ろう。
 ほら見ろ。僕はどんなことだって全部、一人で乗り切れるんだ。


 一時間後。
 露伴の家に康一が訪れる。
 玄関で康一は声を張り上げた。
「露伴せんせーいっ! 風邪気味だって聞いたんですけど、大丈夫ですかー!? 僕、のど飴だったら持ってますけど、先生舐めますかー!?」
 その声を、露伴はベッドの中で聞いていた。
 思わず目を見開いてしまったが、露伴は頭を振って呟いた。
「……絶対に幻覚だ。あれは夢だったんだ。……どうして康一くんが、風邪を引いてるって知ってるんだ?」

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