山岸由花子はこの日、ついつい勾当台商店街まで来てしまっていた。
このまま行けば、十分もかからずに康一の家の前に出てしまう。
クラスメイトが少女漫画を読みながら、「遠くから見てるだけで幸せになれるってステキよね。そんな恋がしたいわ」と言っていたのを聞いてから、足が言うことを聞かなくなり、そして気づけばこんなところへ向かって来ている。
本人が一番良くわかっていることだが、見ているだけで幸せになれるとは到底思えない。すぐにでも駆け寄って行きたくなり、それを止めることもできず、結果的にはますます康一に嫌がられる。
「由花子くん」
名前を呼ばれ振り返った先にいたのは、最近康一を無理矢理引っ張り回している漫画家だ。
「何?」
康一くんが断れない人だって知っててまとわりついてる男だわ。
由花子は、この漫画家があまり好きではない。康一には、たとえ男友達であってもそばにいてほしくないのに、この漫画家は人が良いのにつけ込んでやりたい放題だ。
しかしそう思う反面、由花子はこの漫画家が少しだけ羨ましかった。
あれだけ強引に連れ回しても、康一は「わがままだなあー」と苦笑いするだけ。彼のすることを結果的には許してしまっている。
もし同じことを、あたしがしたら……。
以前にそれで康一からはっきりと嫌いだと言われてしまった。
どう見ても、この男のやっていることの方が酷い。由花子があの程度で嫌われるのなら、この漫画家など、康一に二度と近付くなと言われてもおかしくないはずだ。
なのにどうして。
どうして康一は、この男のされるがままになっているのか。
それは、思い込みの激しい人間と、ただ自己中心的な人間との差だったが、由花子はその性格故にそういった部分には思い至らない。
また、露伴が年上で、有名な漫画家であり、更に康一が彼の作品を愛読していることも、多少は影響しているのだが、それもやはり由花子の頭には浮かばない。
「差し出がましいとは思うんだが……君、康一くんを探しているんじゃないのかい?」
「………」
だったら何? 会うなとでも言うの?
「君の家は確か、反対方向。このまま進んでも、先は住宅街。康一くんの家の方角だ」
ええ、その通りよ。行っちゃだめだって知ってるけど、足が勝手に動いてるのよ。
漫画家は、サンジェルマンで買って来たらしいバゲットを二本抱えた格好で、鞄から何かを取り出した。
「もし康一くんに会うなら、これを渡してくれないか? 頼まれていたんだが、今日はちょっと、届けに行くのも面倒な気分になったんでね」
一枚のMDを差し出され、由花子は思わずそれを受け取りかけて、慌てて手を引っ込めた。
「いいえ……会えないわ。だって、あたし、康一くんに会っても、どうしていいのか……」
しおらしい様子は、この不可解な漫画家の興味を引いたようだった。
「面白い。実は今度、現代の高校生の恋愛をテーマに短編を描くんだが、僕が知ってる連中はそういうのとは無縁の無粋な輩でね。だが君がいたようだ」
「あたしの心を本にして読むつもり? 見てもいいわ、あたしがどれだけ康一くんのことを想っているのか、よくわかるでしょうからね」
きっとそのページの中には、この漫画家に対する見当違いな嫉妬と羨望も書かれているのだろう。それを見たら、この漫画家はどんな反応をするのか。
「こういうジャンルは、見ないから面白いんだよ」
その言い方が癪に障る。
「いちいちうるさいわね! あたしがどれだけ苦しんでるかも知らないくせに! あんたも皆も、あたしの気持ちなんてこれっぽっちもわかってくれないのね!」
望みはただ一つ。康一に好かれること。康一に微笑みかけてもらえること。康一といつも一緒にいること。康一、康一。すべて康一。康一に愛されることそれだけだ。
そう考えただけで、髪の毛が一気にうごめき出す。止める気にはならない。この漫画家を締め上げたら、きっとこの瞬間だけ気分が良くなるだろうから。きっとこの男も、いきなり由花子が乱暴な真似をするとは思っていないはずなので、簡単に巻き付くことができる。
しかし、予想に反して手を出して来たのは漫画家からだった。
「ヘブンズ・ドアー。君は岸辺露伴を攻撃できない。……せっかくだから、少しだけ見せてもらおう」
他人のプライバシーなど全く頓着していないらしく、漫画家は遠慮無くページを捲る。
「なるほど。これはすごい。こんなに激しい感情は初めて見る」
ずっとパンを抱えたまま、漫画家は由花子を読み漁ると、一旦解除し自由にしてくれる。
「さて」
どれだけ髪の毛を動かしても、本当にこの漫画家の方には毛先が向かない。
「由花子くん。君は、誰にも理解されていないし誰にも理解してもらえないという悲劇の中で、より一層康一くんへの想いを強くしている。ところがそのくせ、誰かが君と康一くんをあっさり結びつけてくれることも期待している」
「………」
「僕は今、いい物を持っているんだがね。このMD、これは僕の家にあったのを康一くんが見て、是非聴きたいから貸してほしいと言ったので用意したんだが」
苛立ちばかりがつのり出す。
ここで漫画家は言葉を切り、意味ありげに由花子を見た後、口の端だけ持ち上げて笑った。
「これ、君にあげようか?」
「……なんであたしがそんなもの貰わなきゃならないのよ」
「これを聴けば、康一くんの音楽の趣味がよくわかると思うよ。さりげなくライブに誘ったり、共通の話題を楽しむことができる」
空いている方の手でそれを弄び、漫画家は意地の悪い視線を由花子へ投げつける。
「わかり易く言ってやろうか。僕は君に、康一くんと接触するためのきっかけをあげようと言ってるのさ」
言われてみれば、コンサートや映画に一緒に行く、というのはデートの基本だ。しかも同じように楽しめなくてはならない。お互いの好みもよくわかった上で。
つい手を出しかけた由花子に、露伴は釘を刺す。
「ただし。これを受け取るってことは、僕が君達の仲を取り持つってことと同じなんだぜ?」
「?」
「こんなことがって思うだろ? でも手助けに大も小もないんでね。肝心なのは僕の手を借りたって事実だ。それで君と康一くんがうまく行ったとしよう。君は確かに幸せを感じる。毎日が楽しくってしょうがなくなる。そう、それでも一つだけ、どうしても気になることが出てくるはずだ」
フランスパンを抱えた状態で何を気取っているのかと思うような仕草で、漫画家は由花子の周りをゆっくりと歩き始める。
「僕の手で結びつけられた二人は、僕の手によって引き離されるかもしれない」
「なんですって!?」
「君はそんな不安で毎日毎日苦しむ。僕が気紛れに二人の間を壊したら? 誰か他の女の子が、康一くんと付き合いたいから僕に力を貸してくれと頼んだら?」
「あんた、いったい誰の味方なのよ!」
くれるならさっさとそのMDを寄越しなさい。その感情をはっきりと顔に出し、由花子は漫画家を睨みつける。
「僕は誰の味方でもない。恋愛に味方も敵もないよ。そうだな、君には確かに手を貸したし、結果として一度は康一くんと付き合えたんだ。誰にでもチャンスは平等にあるべきかもしれないな。僕はまだ康一くんと付き合ったことのない女の子の為に力を貸すかもな」
「何が言いたいの?」
「ここで僕からこれを受け取ったら、君はつまらない疑心暗鬼で康一くんと破綻するかもしれないって話さ。どうする? 自力で道を開くか、誰かに助けて貰って簡単に康一くんに好かれるか?」
この男は頭がおかしい。
由花子はそう思った。
実際、こうして話しているだけで、由花子は湧き上がる怒りをどう処理していいのかわからなくなって来た。どうしてこんなに人を不愉快にさせるのか。
康一と付き合えたら。それ以上の幸福などない。
なのにこの漫画家は、康一と付き合うと、今度はもっと苦しむことになると脅して来ている。
冗談ではない。
康一と、純粋に幸せになるのだ。絶対に。
「ずっとずっと康一くんと一緒にいたいのよ! 何の心配も必要ないくらい、幸せになるのよ!」
その答えを予想してでもいたのか、漫画家はまた笑みを浮かべる。
「では、これは予定通り康一くんに渡そう。せいぜい頑張りたまえ。ま、物事はなるようにしかならないがね」
そう言い残すと、MDをまた鞄の中に戻し、漫画家はすたすたと歩き去った。
「……なんなのよぉ、あいつは」
由花子に出逢う直前、露伴に何があったのか。由花子はそれを知らない。
少しだけ不快な気分を味わった露伴が、八つ当たり気味に由花子に近付いて来たことも、由花子は知らない。
自己中心的で我が儘な露伴の勝手な事情で、ただからかわれたのだということも、当然、由花子は気づいていなかった。
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