天気が良かったので、午後、露伴は外に出た。
適当に歩き回り、時折スケッチブックにペンを走らせた後、たまたま近くからパンの香りが漂って来た。
時刻は丁度一時。
サンジェルマンの評判のサンドイッチは一時過ぎには売り切れてしまうと聞いている。その話が本当ならば、もう残っていないはずだ。
別にサンドイッチが食べたかったわけではないが、露伴は店内に入った。
これから昼食を摂るらしいOLや主婦の姿が見える。時間が少し遅いせいか、一般の学生や会社員はもういないようだ。
洒落たパン屋だ。今度取材させてもらおう。
今はカメラを持って来ていなかったので、それは次回に持ち越すしかない。
ざっと店内を見回し、露伴は噂が誇張でなかったことを知る。確かに、サンドイッチという札だけがそこに残され、現物はどこにもない。
とはいえ、入ってしまったのだから、何か買うべきだ。
ここで昼食分を買ってもいいが、家に帰ればそれなりに何かある。そうだ、明日の朝食べるパンが無かった。
角食に目を遣った後、露伴は結局バゲットを二本買った。
こうやって歩いている姿を、知り合いの誰かが見ていたら、きっとこう思ったはずだ。
いくらなんでもやりすぎだ、と。
あんな大きな家に一人で住み、どことなく洗練された生活をイメージさせる露伴には、確かにスーパーの買い物袋よりも似合うものがあるが。
スケッチブックを肩から提げ、空いている方の腕でフランスパンを抱える。
絶対何か狙って、ああいう格好をしているんだ、と思われそうだが、実は本人にはそんなつもりはない。
たまたま食べたかったからこれを買っただけで、気が向けば大根だろうがネギだろうが平気で持ち歩ける。ただし、本当に大根を買っている姿を見た者はいないが。
パンを抱えたまま、勾当台の商店街へ差し掛かった露伴は、何の気なしにコンビニを見てしまった。
……まずい、目があった。
確かに、何も考えずにコンビニなどを覗いてしまった露伴が迂闊だった。
しかし。
どうして地縛霊がコンビニで立ち読みなんかしているんだ?
相手は一瞬のうちに店の外に出ている。
「露伴ちゃん」
そういえば前に、オーソンで新聞を読んでいる、と聞いたような気もする。
一方、足許を見れば、入っても入らなくてもどうせ誰にも気づかれないというのに、律儀にアーノルドが表に座り込んで鈴美を待っていた。
「大っきなパンね。一人で全部食べるの?」
彼女の話し相手になれる人間は、スタンド使いか霊能力者くらいしかいないのだろうから、普段は犬相手に独り言を言って過ごしているはずだ。
だから話が出来る人間が近寄ると嬉しそうに喋り出すのだ。
露伴はそう自分に言い聞かせた。
たとえば、康一が通っても、仗助が通っても、きっと同じ反応をするはずだ。自分だけじゃないから、気にするな。
「……一人で暮らしてる僕が、一人で全部食べるのは当然だろ」
どんな顔をしていいのかわからず、露伴はついつい鈴美から顔を背けて答えてしまう。
「一人でちゃんと御飯作ってるの? 好き嫌いとか、してない?」
「僕は四歳児じゃないんだ。そんなことくらいできずに独り暮らしをしようなんて思わないよ」
彼女から見れば、幾つになっても露伴は、近所に住む幼児のイメージを抱かれたままなのかもしれない。
外見上は鈴美の方が年下なのに、子供扱いされるのは妙に気恥ずかしい。
「露伴ちゃんのことだから、夢中になったら、食べたりとか寝たりとか、忘れちゃうんじゃないかって心配してるのよ」
「……そういう日もあるのは認める。だが規則正しく過ごそうなんて思ってたら、僕の仕事はちっとも進まないんでね」
「思ったとおりだわ。男の子なんだから、こんなにひょろひょろじゃだめよ」
そう言って、露伴の腕を掴む。
どうして幽霊なのに触れるのか、といった疑問は、もう露伴は持たないことにしていた。こればかりは露伴にも理解できない現象だ。
男の子。
まだ若いとはいえ、選挙権もあり、立派に現代社会で職業を持っている露伴に対し、そんな言い方ができるのは彼女くらいだ。
「それと、露伴ちゃんはちょっと我が儘だから、友達作るのも下手で。康一くんくらいしかいないでしょ、今」
「……僕の交友関係まで心配してくれるのは有り難いが、一つだけ訂正しておくよ。友人は自分で選ぶ方でね、それに数だけたくさんいたって仕方ないだろう」
「だめよ! 友達はたくさんいた方がいいの! 仗助くんやみんなと仲良くするのよ!」
なんだってこの露伴が、十六の小娘から説教されなければならないのか。
こんなところを通りかかったせいだ。
そうは思っていても、どう対処していいのかわからない。
これだけ強く出られるからには、それなりの理由が絶対にある。きっと露伴が子供の頃にしてしまった、何か恥ずかしい失態を、昨日のことのようにはっきりと覚えているに違いない。自分では何だかわからないが、何しろ子供のやることだ。いかに露伴といえ、子供の時分の行動に待ったはかけられない。
「わかったよ。……考えてはみるよ」
あの連中と親しくする自分の姿を想像してしまい、露伴は気分が悪くなってきた。
もう早くここから離れよう。
適当に話を終わらせ、露伴は帰りかける。
「あっ、露伴ちゃん! ちょっと屈んでくれる?」
しかし、呼び止められた露伴は、仕方なく、逆らわずに鈴美の前で膝をついた。
今度はいったい何だ?
何を言われるかと待ったが、何故か彼女は無言だった。
「……?」
「髪、少し伸びてるわ」
その程度のことで、わざわざこの露伴に跪けと言ったのか。
「机に向かう時に邪魔にならなければいいんだよ」
「ハサミないかしら? あたし、切ってあげる! アーノルド、ハサミを探して来て」
「なっ……」
冗談ではない。
いくら昔馴染みの近所のお姉さんでも、そこまで勝手をする権利はない。
「普通の店で専門職に任せるからいいよ!」
「だって伸びてるのほんのちょっとよ。ちょっと切るだけなのに、お金払うの馬鹿馬鹿しいでしょ」
「僕が自分の力で稼いだ金だ! 金は余ってるから、そんなはした金は気にしない!」
「大丈夫。あたし上手いのよ。心配しなくてもいいわ」
心配だから断ってるんだ。
逃げ腰になる露伴の髪に触れ、鈴美は寂しげに笑った。
「忘れちゃった? 露伴ちゃんの髪、あたし何回か切ってあげたのよ。動かないでって言っても、露伴ちゃんはお絵描きに夢中になっててすぐに頭を動かしちゃうの」
知らない。
そんなこと、覚えていない。
「仕方ないから紙とクレヨン取り上げるんだけど、今度は泣いちゃうの。可愛かったわ、小さい露伴ちゃん。あたし兄弟いないから、弟がいたらこんな感じねって思ってた」
「……そんなこと、あったか、な……?」
「覚えてないのね、露伴ちゃん。涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃになっちゃって、あたしが拭いてあげたら、ほっぺたにチューってしてくれたわよ」
やっぱり、彼女は恥ずかしいことを色々と覚えている。できればそういうことは、他の連中には言わないでいてもらいたいところだ。
彼女にとっては、十五年前は昨日のことも同然なのだ。今目の前にいる露伴のことも、ただ少しだけ身体が大きくなった、という程度にしか認識しておらず、当時と変わらぬ扱いをしようとしている。
そんな感傷に浸っている間に、アーノルドはどこかから鋏を銜えて戻って来た。
「ご苦労様、アーノルド。さ、露伴ちゃん」
切りたいのなら切らせてやればいい。それで彼女が満足するなら、髪の一センチや二センチ、どうってことはない。
そう思う反面、この露伴が小娘の言いなりになって、髪まで黙って切らせたなどという不名誉な事実を確立させたくないというのも本音だった。
そもそも、この「上手いのよ」という言葉をどこまで信じていいのか。人が覚えていないのをいいことに、実はかなり下手だったらどう責任を取るつもりなのか。
「………」
今ならまだ断れる。断るなら今だ。
一瞬躊躇したが、露伴は意を決し立ち上がる。
「そろそろ帰るよ。髪はもう少し伸びてからの方がいい」
ちらりと見遣った鈴美の顔は、なんだか少しだけ残念そうだった。
切らせてやればよかっただろうか。そんな甘い感情が露伴を戸惑わせる。が。
両手の拳に力を込め、露伴はそのまま足早に自宅へ向かって歩き出す。
一度でも振り返れば、すぐに彼女の元へ駆け戻って、「やっぱり切ってくれるかな?」とでも言いそうな自分に気づいていたので。
恥ずかしい思い出の数々。忘れて欲しい記憶。
露伴が鈴美を再び本にすれば、そういった露伴に関係する余計な記憶を削除することは可能だ。
知っていても、露伴はそれをしない。
少しばかり迷惑でも、扱いに困っても、彼女を変える気にはならなかったからだ。
それは、既に鈴美が死んでいる人間だからだったか、そのままの鈴美でいてほしいからだったのか。露伴はそれについて、深く考えることをわざと自分に禁じていた。
これだけ何度も会って、髪にまで触れられても、それでもまだ、全く彼女のことを思い出せずにいる。
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