『鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた』
何度もこの言葉を呟いた。
この僕が言ったという言葉をだ。
実際口に出しても、その言葉に全く覚えがない。
『鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた』
この僕にも、子供だった時代があるのは当然だ。
どんな子供だったのか。甘えたり、泣いたり。この僕のことだから、一人で空想の世界に遊ぶのが好きだったのかもしれない。
こうして一人の部屋で鏡を見る時、自分の顔の中に、子供だった頃の面影を探し求めても、失ってしまった記憶は戻らない。
自分が住んでいた、あの家はなんとなく覚えている。見上げた二階の窓。玄関の扉。
だが、『鈴美お姉ちゃん』は覚えがない。
あの犬にも。
僕を見て擦り寄って来るのだから、十五年前には日常的に頭を撫でていたのかもしれない。
『鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた』
馬鹿なことを考えるな、岸辺露伴。
あれは幽霊だ。
見た目は十六の少女でも、そんな外見に騙されるな。
もし、だ。
もし何事も無ければ、だ。
まあ僕の両親も引っ越さなかったんだろうから、ずっとこの町で僕は成長していたはずだ。
僕が小学生になる。その時彼女は女子大生かOL。毎日忙しくて、僕にかまう時間も減って、朝夕の挨拶ぐらいしかしなくなる。
僕が中学生になる。その時彼女は二十代半ば。適当な相手を選んでいて、そろそろ嫁に行く、と嬉しそうに僕に教える。
そして僕は漫画家になる。彼女はもう子供の一人か二人いて、育児で忙しくなって、遠く離れた土地から年賀状だけ送って来る。
一旦は東京へ移った僕が、煩わしさからまたここへ戻る。彼女は何処か違う町にいる。子供達は僕の漫画を読んでいて、昔の縁で彼女は僕にサインをせがむための電話をかけてくる。
あの少女は、そういう関係の相手だろう?
ちょっと若く見えるだけだ。
馬鹿なことを考えるもんじゃない。
この露伴に必要なのは、漫画を描き続けるのに欠かせないものだけ。
あんな小娘と恋愛ごっこをしてどうするんだ?
この僕が。この岸辺露伴が。
ただちょっと、運命が悪戯を仕掛けて来ただけだ。
僕があの女に抱いているのは、恋愛感情なんかじゃない。絶対に違う。そんなことは有り得ない。
ただ、事態が少々複雑化しているから、だからこの僕でさえ混乱してしまった。それだけだ。
見てみろ。
鏡に映っているのは、いつもの僕の顔だ。
この町に来る前から見慣れている顔だ。
才能に溢れた、若き天才漫画家の顔だ。
自信に満ち溢れた、岸辺露伴だ。
僕はちっとも、変わっていないぞ。
あの女を見ると変な気持ちになるのは、忘れていても懐かしさはこみ上げてくるからだ。
考えすぎるな。
十五年もあそこにいたんだ。焦ってどうにかしてやろうなんて、思う必要は全くない。
悩んでなんかいない。
僕は悩まない。
僕が頭を悩ませることがあるとすれば、それは漫画のことだけだ。
それ以外のことで悩んだりはしない。
悩む。他人と、漫画の登場人物だけが悩む。僕は悩まない。
僕はいつだって、蚊帳の外でのんびり見物していればいい。
『鈴美お姉ちゃんが窓から逃がしてくれた』
鏡の後ろの窓ガラスに、僕の後ろ姿が映る。
合わせ鏡のように、こっちにそれが映る。
正面から見る僕は、いつも通り。
そのはずなんだが。
……どうして僕の後ろ姿は、こんなに寂しげに映るんだ?
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