本屋の前で、康一は財布を握り締めた。
今日という今日こそは、ここである物を買わなければならなかったので。
しかもそれを全部購入するとなると、小遣い一ヶ月分程度では到底間に合わない。
だからこそ、ここでまた迷っていたのだ。
突然思い出したように、露伴は億泰にハーモニカを吹けと言い出した。本当に、退屈しのぎにたまたま思い出したのかもしれなかったが。
いきなり言われても、何年も触っていなかった億泰にそんな芸当ができるはずもない。
公約通り、露伴の単行本を全巻買い揃えさせる、と仗助は口からでまかせを言ったが、なぜかその時、露伴が指名したのは康一だった。
「康一くん、君もまだ僕の本を全部買っていなかったよな。いい機会だから、どうだい? この連中より、君のような真の読者に買ってもらった方が、僕は嬉しい」
どうして嘘がばれているのか、康一にはわからなかったが、露伴くらいの漫画家になると、観察力が普通の人間とは違っていて、その程度の嘘は簡単に見抜いてしまうのかもしれない。
康一は考えもしなかったようだが、実は露伴は定期的に康一を本にして読んでいる。その間の記憶も消されているので、わかっていないだけだが。
またその場しのぎに「買いました」と言っても、通用しないかもしれない。康一は覚悟を決めて、今本屋の前にいる。
これで買わなかったら、どうなるか。
絶対に露伴は拗ねる。
またいつものように、人を振り回すわがままぶりを発揮して、康一を困らせるのだ。
とは言っても。
露伴はデビューして四年の漫画家だったが、その年数からは考えられない程の物が発行されている。単行本だけでも多いというのに、画集その他合わせると、康一の部屋の本棚を全部埋め尽くすくらいの量になる。
杜王町の本屋は、地元出身の漫画家という理由もあるだろうが、とにかく人気作家なので、露伴の本だけは確実に、常に切らさず全て揃えられている。
売り切れてました、とか、今注文中です、といった言い訳もできない。
その頃露伴は、自宅で仕事を終えていた。
昨日は仕事の進み具合が悪くて苛ついていたので、つい億泰達をからかってしまったが、それで逆にすっきりしたのか、今日は信じられない程筆が進んだ。
一息吐くと、ついでに康一まで虐めてしまったのは悪かったのではないか、と今頃になって思い始めて来た。
ちゃんと買ってます、と口先だけで言っていることは前から知っていたが、小遣いが足りないからだという理由も露伴はしっかり読んでいる。そういう切実な問題が絡んでいる以上、露伴も無理は言わない。毎週、コンビニで欠かさず読んでいて、できることなら買い揃えたいと思っていることも、露伴は知っていたので。
露伴にとって一番大切なものは漫画。次が漫画のために役立つ人材や出来事。その次に来るのが、漫画を描く自分。
友人や仲間といったものは、大切な部類に入らない。
そもそも、露伴は友達や仲間というものを最初から持っていないので、何処にも分類されていなくて当たり前だ。
勝手に親しんで来る連中をどう扱おうが、露伴の勝手だ。
変な頭の仗助は、露伴の作品に限らず、漫画をろくに読んでいない、センスの無い奴だ。
もう一人の億泰に至っては、相手にするのも馬鹿馬鹿しい程、頭の回転が悪い。
そんな人間相手に、露伴が本気で付き合ってどうしろというのか。
それにしても。
康一はその点では、露伴の中でかなり上位に位置する人間だった。
露伴と相性の良いファンで、心の底で尊敬の念を抱いていてくれて、露伴の我が儘にも嫌がらず付き合ってくれる。そして、漫画の主人公にしたいくらいの人柄だ。
今頃は本屋の前で財布の中身とにらめっこでもしているのだろうか。
どう考えても、全部一気に買うのは無理だ。
今月のこれからの予定を考えると、今買えるのは、一冊。無理をしても二冊。それが限度だ。
ずらりと並んだ『ピンクダークの少年』の背表紙を眺めながら、康一の手は震え出す。
確かに、露伴のファンだと言っておきながら、本を買い揃えていないのは失礼な話だ。ここは買うべきだ。
だが考えようによっては、本というのは、人に押し付けられて買うのではなく、自主的に欲しいと思った物を買うべきなのではないか。露伴にしても、無理矢理買わせるより、心から露伴の本を読みたいと思って買って貰った方が嬉しいのではなかろうか。
露伴のファンだし、性格の破綻ぶりとは裏腹な、あの漫画に対する真摯な姿勢は尊敬に値する。それに同じ杜王町のスタンド使い同士、仲間意識も芽生えている。
しかし。
康一にとって大事な存在は、露伴一人ではない。
家族や、他の友達。承太郎達といった仲間。全てが同じように大切だ。当然、友達付き合いをする上で、どこかへ一緒に出掛けるにしても金は必要だ。露伴のためだけに小遣い全てを使うことはできない。そのために小遣いを上乗せしてほしいと家族に迷惑をかけることもできない。
二冊。やっぱり一冊。
今日のところは、やっぱり一冊で。
康一が本当に全部買えるはずがないことくらい、露伴も知っている。月の小遣いが幾らなのかは前に読んだ。
せいぜい、一冊か二冊というところか。
意外に律儀なところがあるので、一冊か二冊は買うだろう。
仕事部屋の椅子の上で、露伴はペンを弄びながらそんな想像をする。
まあ、実際に何冊買えたかは、後から読んでみればわかることだ。
そのうち康一が、買ったばかりの本を持ってここへ来るだろう。記念にサイン入れてください、とでも言いながら。
露伴は机の上にまだ乗せられたままの原稿を封筒に収め、康一が来た時の為の飲み物を準備するために一階へと下りた。
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