真夜中にコンビニから買って来た電池を時計に入れ、露伴は時間を合わせ直す。
別に時計の一つや二つで大騒ぎすることもなかったのだが、急に気になってしまったのだから仕方ない。
時刻は既に午前四時。
じきに外も明るくなるだろう。
今からベッドに向かうとする。ほんの二、三時間で、外は通勤通学の人間で埋め尽くされる。人々の活動が嫌でも耳につき、とても寝ていられるような状況ではないだろう。
半端に目を覚ますくらいなら、もう少し待った方がいい。
椅子に深く身を沈めた時、耳元で椅子の金具と何かが触れ合う音がした。
ああ、そうか。
一日中付けっぱなしのイヤリングだ。
右耳に手を遣り、露伴はそれを緩める。締め付けられていた耳が一気に楽になる。多分今鏡を見たら、耳朶にはくっきりと金具の跡がついているだろう。
軽く揉みほぐし、左側も外す。
この間久しぶりに会った編集者は、来た時から何か聞きたそうにうずうずしていたので、先にヘブンズ・ドアーで読んでみた。さっさと言えばいいものを、いつまでも言い出さない方が悪い。彼が考えていたのは、「いつも外さないんだったら、いっそピアスにでもした方が楽じゃないですか?」だった。
ただのペン先だと思って侮っているのだろうが、耳に下げるとなると結構な重量だ。第一、穴を開けるのが面倒だ。そもそもそんなことは、本人の自由じゃないか。
しばらく両手の中で二つのアクセサリーを弄んだ後、露伴はそれを持ったまま寝室へ向かった。
一部の人の間では、どうして露伴先生は、毎日あのイヤリングとヘアバンドを着けているんだろう、というささやかな疑問について語り合われている。
知りたいなら直接僕に聞けばいい。
とはいえ、露伴は聞いたからといって素直に教えてくれるような親切な人柄ではない。聞くだけ無駄かもしれないし、それに岸辺露伴という人間はどこか得体の知れないところがあるので、下手なことを口に出せないと誰もが思っている。
結局そのファッションについては誰も言及できていない。
露伴の生活水準は非常に高い。よって、金銭感覚も常人とは多少違っている。
電気代の節約、という概念が露伴の中にあるのかどうかわからないが、仕事部屋の明かりは煌々と点けられたままだ。
他人を絶対に踏み込ませない、露伴のプライベートルームの一つである寝室も、他の部屋と同様、綺麗に整頓されている。内装や家具も、一流ホテルの客室とそう大差ない。
別に儲けたくて漫画を描いているわけではないが、懐が暖かくなるのは悪いことではない。露伴の手元に札束が増えるということは、多くの読者が露伴を支持してくれている証拠なのだから。
サイドテーブルには、昨夜読んだ本が置かれたままになっていた。
杜王町の本屋は、センスはいいが品揃えはあまりぱっとしない。時々妙に専門的な本がひっそりと並べられていることもあるが、そうそう面白い物には出会さない。
そんな店内の片隅で埃を被り掛けていたのがこれだ。
世界の奇形について生々しい解説と写真付きで言及された、はっきり言わせてもらえれば一般人はあまり必要としない類の分厚い本だ。折角見つけたので、何かの時に使えるかもしれないと買ったのだが。
寝しなに読むような物ではなさそうだったが、露伴は気にならないらしく、何の感慨もなくただ読み耽った。
本当に、何の感慨もなく、だ。
他人の身体がどうなっていようと、露伴には何の関係もないことなので。
額のバンドを外し、軽く頭を振る。
まだ寝るには早い。シャワーでも浴びようか。
寝室を横切る際、またその本が目に入った。
そういえば。
昨夜は何か夢を見たような気がする。
双子の赤ん坊の夢だった。
バスルームに向かいかけた足を止め、ベッドに腰を下ろし、露伴は夢の内容を思い出そうとする。
こういうことは曖昧にしておくと、とんでもない時に突然どうしようもなく気になり出すものだ。さっさと思い出してすっきりと片付けた方が後々余計な悩みを作らなくて済む。
なんだったか?
生まれたばかりの双子を見下ろす自分の姿は、はっきりと映像として残っている。
産院だろう。そういう感じの建物の中だ。
誰かが子供を産んだ。それに立ち会ったのか、ただ通りかかっただけなのか。
あの赤ん坊は、なぜか密着していて、そう、腰の辺りが。
「シャム双生児だったな……」
あの本を読んだせいだろうが。
どんな女だった?
いや、見ていない。女の顔は見ていない。女は、そこに存在していなかった。それは確かだ。
「くだらない。僕が、父親になる夢なんて」
考えただけでぞっとするような話だ。
本当に、自分の子供が生まれる夢だったか。
腰と腰の骨がくっついた子供が生まれる、ということが問題なのではない。露伴が家庭を持つ、ということが気持ち悪い。
そんなものはいらない。
僕は一生誰とも関わらずに生きていたい。
必要なのは漫画。そしてそのために役立つ経験。それだけでいい。それ以上の幸福など、露伴には有り得ない。
いったい、誰の子供だったのか。
「待てよ……」
誰かが部屋の隅に立っていた。病院の人間ではなかった。露伴と、双子と、まだ誰かいた。
身体の大きな男が、部屋の奥で小さくなっていた。あれは。
あれは、おそらく……。
「……どうして僕が、東方仗助の子供を見に行かなきゃいけないんだ?」
だいたい、今年やっと高校生になったばかりの男だ。成人して結婚して子供が生まれるのは一体何年後の話なのか。そんな頃まで、露伴はあの連中と縁を切れずにいるのか。切れるどころか、そんな場に立ち会うなど、今以上に親密な関係になっているということだ。
縁起が悪い。
あの不愉快な男と、和気藹々としている将来など、考えただけで虫酸が走る。
こういう本を見て寝たから、シャム双生児が生まれる夢を見てしまうのは仕方がない。それは別にいい。
問題なのは、出産がどうこうではなく、東方仗助の夢を見てしまったこと、ただそれだけだ。
早く忘れよう。
忘れた方がいい。
露伴は立ち上がり、当初の予定通り、大股にバスルームへ向かった。
五年後も十年後も、露伴はこの家で漫画を描き続けているだろう。そんな自分の姿は簡単に想像できる。
そしてそんな自分の周囲は?
きっと康一くんは高校を卒業して大学へ行くか就職するかして、それなりに平凡で幸福な家庭を作ることになるだろう。時々は遊びに来てくれるかもしれない。ただし一人ではなく、家族を連れて。それで露伴が不機嫌になることはわかっていても、家族の方が大事だから、と困った顔をしながら。
他の人間もきっとそうだ。
年月と共に変わっていく。
露伴だけが、変わらずにここにいる。
そして誰かが苦笑してこう言う。
「相変わらずですね、露伴先生は」
それで、いい。
露伴はそれでいい。
熱い湯を頭から被り、露伴は一つ決意していた。
誰であれ、たとえそれが康一でも、絶対に他人の出産の時には祝いになど駆けつけたりしない、と。
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